ヤモリのまぶた 1 +  + 

 

 

 1

 ちりん、という鈴の音を聞いた気がして、陸はまぶたを開いた。
 飛び込んできたのは、縦と横に走る茶色の線。それと、外のにおい、だった。深く吸い込むと、ノドの奥のほうまで入ってきて、なんだかほっとするにおい。途端、まぶたがゆっくりと下りてきた。だんだんかすんでいく視界の向こう側に、窓があった。カーテンの隙間から見える外は暗い。だからまだ寝ていても大丈夫。安心感を得て、とろとろと陸は再び夢の世界へと沈んでいった。
「ひ」
 声、を聞いた気がした。かすかな響き方がどこかさっきの鈴の音に似ている。
 陸は今度こそしっかりとまぶたを開いて、身体を起こした。記憶にないタオルケットがおなかに撒きついている。誰か、おそらく母か姉が掛けてくれたのだろう。
 軽く頭を振って脳みそに刺激を送る。指先が畳のい草をなでて、思い描いたとおりの場所にいるのがわかった。この部屋は、日当たりがよくて、風通しもいいので、夏休みのあたりから陸のお気に入りの場所になっている。漫画を読むのも、ゲームをするのも、最近はもっぱらここで済ませている。自分の部屋には、ランドセルを置くためぐらいにしか行っていない。そういうわけで、もはや陸はほぼこの部屋の主人の座を手に入れかけていたが、もちろん本来の主人もきちんといて、今は、大きなベッドの上で静かに眠っている、はずだった。
「じいちゃん?」
 呼んでみた。けれど、返事はなかった。空耳だったのだろうか。陸は膝で畳を踏み締めながら、ベッドへと近づいていった。祖父のために買われたこのベッドは、部屋の三分の一を占める巨大サイズで、膝立ち状態の陸の、ちょうどあごぐらいの高さにマットがあった。
やっぱり、祖父は起きていた。しっかりと開かれた目の中には、白いものに混じって、覗き込んだ陸の顔が映っている。じいちゃん? ともう一度呼んでみたけれど、祖父の顔に特別な変化はなかった。じぃっと、どこかを見つめたまま動かない。陸は、祖父のへこんだほっぺたに自分のほっぺたをくっつけてみた。けれど、祖父の視線の先には窓があるだけで、陸の目には他に何か特別なものは映らなかった。ふわり、とカーテンが揺れる。一瞬、部屋の中が優しい光に包まれたような気がした。陸は、祖父のベッドをぐるりと迂回するように歩いて窓の前にたどり着いた。カーテンを脇に寄せる。現れた空には、大きなまん丸のお月さまが出ていた。わずかに開いた窓から、庭で鳴く虫の声が忍び込んでくる。足を触る風の冷たさに、もうすぐ冬がやってくるのだと告げられて、陸は憂鬱になった。今年の冬は越せないでしょう。医者は決まって同じ言葉を使うから。

 その夜、からからとやけに大きな音を立てる窓を閉めながら見上げたお月さまに、一瞬、暗い影がよぎった気がしたのは、陸の気のせいではなかった。不思議そうにかしげた陸の首に向かって、それは、ぽたりと落ちてきた。

 さーっ、と一気に冷たい血が後ろ向きに流れる。こんな音を、陸は生まれて初めて聞いた。一拍置いて、ぎゃあー!というまだ声変わり前の高い悲鳴が、静かな夜の闇を引き裂いた。
「どうしたの?!」
 意外なことに、最初に駆けつけてきたのは、パジャマ姿の湖子姉だった。顔に白いパックが貼り付いている。ちりんちりん、という鈴の音が半歩あとぐらいからついてきて、さっきの鈴の音は湖子姉が立てた音だったんだなとぼんやりと思う。半泣きになりながら首から引き剥がしたそれは、今は陸の手の中でおとなしくなっていた。恐る恐る開いた陸の手のひらを、湖子姉が一緒になって覗き込む。
「……トカゲ?」
 湖子姉の訝しげな呟きに、手の中のそれは不満そうに身をよじった。違うよ、と陸は心なしか目を輝かせながら呟いた。なぜなら陸は、それのことをよく、よーく知っていたのだ。
「ヤモリだ」

 こうして、秋の深まる満月の夜、我が家に新しい家族が一匹、増えることになった。

 

 

 帰りの挨拶が終わった途端、和人のランドセルからは当たり前のようにゲームボーイアドバンスが出てきた。ちなみにゲーム類全般、学校に持ってくるのは担任の岡先生に禁止されている。とはいえ、陸のランドセルにも同じものが入っていたりするのだから同罪だけれど。さすがにまだ教室にたくさん人が残っている内から堂々と違反する気にはなれなくて、和人の周りに色とりどりのゲームが集まってくる様子をぼんやりと自分の席から眺めていた。
 そもそも今、陸のランドセルの中には、ゲーム以上の秘密が眠っていた。周りをきょろきょろと見回しながら、ランドセルの影で今日何度目かの確認をする、異常なし。
最初から、この秘密は和人たちと共有するつもりはなかった。陸はちらりと、教室の、教卓のすぐ前の席でせっせと帰り支度を済ませている後ろ姿に目をやった。
「なあ今日、陸ん家で遊ばない?」
「え」
 どうしてそういう話の展開になったんだろうか。他のことに気を取られていた陸は、いつのまにか隣にやって来ていた和人に驚きの声を上げた。
「すげえでっかいベッド買ったんだろ? この間かーちゃんが言ってた。リモコンで高さとか調節できるんだよ、な? 見せてよ」
 なぜか自慢げに話す和人と、その話に、すげえと感嘆のため息をもらす周りの奴らの目は、新しいゲームを買ってもらったときみたいにキラキラしていた。
「陸ん家、最近行ってないし。新しくなったら遊びに来いって言ってたじゃん」
 確かに言ってたかもしれない、と陸は夏休み前のことを思い出した。でも実際、そのすげえでっかいベッドは、残念ながらみんなに自慢できるようなものじゃなかったし、家が新しくなったと言っても、無駄な段差をなくしたり、廊下を広くしたりしただけなので、たいして前と変わっていないし。そもそも、祖父のあの、赤ん坊のような姿を、みんなに見せるのはなんとなく嫌だった。陸がどうやって断ろうかと悩んでいる隙に、いつのまにか、教卓の前の席が空っぽになっていた。陸は焦ってランドセルを背負う。外れっぱなしになっていた留め金が、かちゃんと高い音を打った。陸? と思い切り不思議そうな顔をした和人たちに、また今度なと言い捨てて、陸は慌てて走り出した。
 教室を出てすぐの廊下にはもう見つけられなかった。50メートル走、クラス3番の実力を存分に発揮してたどりついた昇降口で、スニーカーを履き替えているところをやっと見つけた。
「真崎!」
 急にランドセルをつかまれて振り向かされた真崎の目は、昨日のお月さまみたいにまん丸になっていた。そしてつかんだ手の先で、陸がぜえぜえと荒い呼吸で立っているのを見て、ますます丸くなった。
「あのさ、ちょっと相談があるんだけどさ」
「……宝田が、オレに?」
「うん。このあと、塾とかで忙しい?」
 真崎はクラスで一番の秀才だ。だからこそ、陸も相談相手に選んだのだが、真崎がいくつも習い事をこなす多忙な身であることは知っていたし、断られる可能性が高いこともわかっていた。真崎はまぶたをぱちぱちとさせて長いまつげを上下に動かしてから、陸の予想に反して首を横に振った。
「別に忙しくないよ。で、宝田の相談ってなに?」


 秘密を打ち明けるのにふさわしい場所として、二人の家と学校のちょうど中間地点にある公園のベンチを陸は選んだ。
 長方形のクッキーの空き缶をランドセルからを取り出して、念のためにもう一度周囲を確認する。幸いなことに、久しぶりに来た児童公園は、草が伸び放題になっていて、二人の他に人のいる気配はなかった。とはいえ、陸たちのいるベンチの周りも例外ではなく、巨大ススキの宝庫になっていたので、二人は地面に足を下ろさずにベンチの上にあぐらをかいた。もしここで逃げ出されたら二度と捕まえられなさそうだぞと考えた陸は、極めて慎重に、クッキーの缶のフタを外した。缶の底には、今朝庭から採集してきた土が敷き詰められている。その上で、昨日陸の首に落ちてきたそれは、身体を丸め、静かに眠っていた。
「これって……イモリ?」
 見た瞬間に出した真崎の回答は、さすがに湖子姉よりもワンランク上だった。
「ううん、違う。ヤモリ」
 陸は満足そうに笑って訂正した。まぶたをぱちぱちとさせてから真崎の目がまた丸くなった。頭のいい真崎に正解を教えられるなんて経験、滅多にできそうになかったので、ちょっと気分がよかった。
「もしかして、宝田の相談って、これ?」
「そう、真崎ならこれの飼い方知ってんじゃないかなと思って」
 真崎はまじまじともう一度袋の中を見てから、いつのまにか正座をしている陸に対して、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「悪いけど、オレもヤモリは飼ったことないな」
 そう、と言葉少なくしゅんとうなだれた陸を見て、ごめんなと真崎がさらに重ねて言った。前に、真崎くんは珍しいカメを飼っているらしい、と女子たちが噂しているのを耳にしたことがあったので、もしかして、と少し期待はしていたのだけれど。もちろん、真崎が悪いわけではまったくなかったので、ごめんと陸もそのまま言い返した。
「触ってみてもいい?」
「うん、いいよ」
 昨日、陸の悲鳴を聞きつけて起きてきた湖子姉と、遅れて合流した母は、二人して、ヤモリと聞いた途端に気持ち悪そうな顔をした。すぐに捨ててきなさい、という母の言いつけをやぶって、湖子姉がディズニーランドに行ったときに買ってきたクッキーの空き缶の中にヤモリを隠した。つまり、学校でも家でも、これがここにいるという事実は秘密というわけだ。だから、真崎の指が恐る恐る、けれど優しくヤモリの背中をなでるのを見て、陸はなんだか嬉しくなった。
 今朝、定規を当てて測ってみたところ、頭からしっぽまで9センチと4ミリ。小さな背中には、色々な形のウロコが不規則な順番でびっしりと並んでいる。頭でっかちで外に飛び出そうなぐらい目が大きい。全体的に灰色っぽい色なのに、頭のてっぺんあたりに少し緑色が混じっているのが特徴的で……
「って、あれ?」
 陸が突然呟いたので、真崎はびくりとしてヤモリから指を離した。真崎の目がまたまん丸になって、まぶたを必要以上にぱちぱちとさせる。長いまつげが上下するのを見ながら、これって真崎が驚くときのクセだろうかと考えて、陸も同じくらい驚いた。真崎ってこんなふうにはっきり感情を出す奴だったんだ。さっきからどうも妙な感じがしていたのだけれど、それはいつものイメージを真崎がことごとく裏切るせいだった。いつもの真崎とはつまり、授業中に先生に当てられても必ず答えられて、休み時間にも分厚い本を読んでいることが多くて、かといって和人たちから仲間外れにされているわけではなくて、なんというか一目置かれる存在というやつで、女子からも真崎くんって大人っぽくてかっこいいとか言われてしまう、陸にとってはどこか近寄りがたい、そんなイメージがあったのだけれど。
 どうやら自分は少し間違えていたらしい。目の前で、どうかした? と首をかしげる真崎を見ながら、陸はこっそりと訂正しておいた。
「……あの、こいつさ、朝見たときはもっと灰色っぽい色してたんだ。でも今はなんか茶色っぽいていうか……」
「ああ、ヤモリって確かハ虫類だから、変色したのかもしれないね」
「いや難しいことはわかんないけど。変色って……こいつ自分で色を変えたりすんの? すげえ」
 うん、すげえな。と真崎が陸の口調をマネして言った。からかわれたはずなのにあまり気にならなかったのは、真崎の目が、新しいゲームを買ってもらったときみたいにキラキラしていたからだった。
「同じハ虫類だったらカメレオンなんかが有名だけど、環境とか気温に合わせて身体の色を変化させることがあるんだって、なんかの本で読んだよ」
 そういえば陸もどこかで聞いた覚えはあったが、目の前で起こっていることが、なんかの本に書いてあることなんだと思うと、なんだか不思議な、すげえ感じがますますした。そして、確かにヤモリもカメレオンもすげえけど、すらすらと自分の知識を引き出してこれる真崎もやっぱりすげえなと陸は思った。真崎はしばらく缶の中に手を突っ込んで、ヤモリのやわらかな感触を楽しんでいた。
ふと顔が持ち上がった。至近距離で改めて見ると、まつげは長いし色も白いし女の子みたいな顔だなと思った。
「なんで宝田は、これを飼おうって思ったの?」
 真崎がすごく基本の基を聞いてきたので、陸は考えるまでもないといったように答えた。
「だって、昨日家の天井から落ちてきたから」
「いや、それはさっき聞いたけどさ。……それ以外にないの?」
 落ちて来て手の中につかまえた瞬間にはもう飼おうと決めていたので、改めてその理由を聞かれると陸は困ってしまった。手を組んでうーんと悩むポーズを作ってみたけれど、特別な、真崎が望んでいそうな、かっこいい理由はひねり出せなかった。
「……ええと、だってさ、ヤモリっていい奴なんだろ? 家の守り神なんだってじいちゃんが言ってたからさ。殺すのも逃がすのももったいないと思って」
 理由のうちの一つを口にしてみたら、ぴり、と胸にしびれが走るのを陸は感じた。なんだろうと疑問に思う前に消えてしまうようなかすかなしびれ。
「ああ、なるほど。家を守るって書いて、ヤモリって読むんだ」
感心したように、真崎の手がぽんと合わさる。一日に二回も真崎にものを教えるなんて経験、すごいに違いないのに、陸は心が急激にしぼんでいくのを感じた。
 急に黙ってしまった陸には気付かずに、真崎がヤモリの飼い方について参考になりそうな意見をいくつかを出してくれた。陸は慌てて、忘れないようにノートの端っこにメモを取る。とりあえず、クッキーの空き缶はやめたほうがいいだろう、という意見には陸も大賛成だった。虫取りゲージ(透明なプラスチックのやつ)でいいんじゃないか、という妥協案まで出してもらったが、あいにく、虫取り自体数えるほどしかやったことがなかったので、陸の家にそんなものはなかった。
「うちのやつでよければ貸してやるよ」
「え、まじで?」
「うん、まじで。あ、なんだったらあとで塾行くついでに宝田ん家に届けようか?」
 快い申し出に思わず飛びつきそうになった陸の胸に、ぴり、とまたかすかなしびれが走った。これくらいの痛みなら気付かなかったことにすればいい。そう思ったけれど、真崎がうちに来るのは困ると陸の正直な心臓が訴えてきた。
「……悪い。今日はちょっとオレの家、忙しくて」
「ん、わかった。じゃあ明日学校に持ってくな」
 にっこりと微笑んだ真崎は、本当にいい奴だなと陸は感じた。ただのクラスメイトにこんなところに連れて来られて、ヤモリなんてマイナーな動物見せられて、飼い方教えてくれなんて頼まれても、嫌な顔一つしない。陸にはひっくり返ってもマネできそうになかった。いつもクラスにいるときのクールな真崎もいいけど、ヤモリを恐る恐る、でも目をキラキラさせながら触っている今の真崎のほうが断然いいと思った。好きだと思った。そしてそう思えば思うほど、陸の中の小さな罪悪感の種が次々と芽を出していった。
 太陽はすでに周りの家の屋根の下にあり、先ほどから公園内にも強い風が吹き付けてきていて、そのたびに巨大ススキが陸たちの膝を叩いた。どこからともなく夕焼けこやけのメロディーが流れてくる。
「あ、やばい。オレ、もう帰らないと」
「オレも塾行かないと。ヤモリについては宿題にさせてもらっていい? 明日までにもう少し詳しいこと調べておくからさ」
 今日の真崎にはいったい何回驚かされたのだろう。陸は笑った。たぶん、ちゃんと心から笑えていたと思う。
「ありがとう、すげえ助かるよ」
「いいって。その代わりまた見せてよな、ヤモリ」
 名残惜しそうに真崎の指がヤモリの頭をなでた。そのときまでまったく反応を示さなかったヤモリも、しっぽを振って別れを告げた。

 

 

 家に帰ると、おいしそうなにおいが奥から漂ってきた。今日の晩ご飯はカレーらしい。メニューから推理してみると、珍しく湖子姉が料理をしているようだった。台所に向かう前に、ただいまと祖父に声を掛ける。相変わらずなんの反応も示さない祖父の足元に、陸は勢いよく腰掛けた。この、まるでトランポリンのようによく跳ねるベッドは、祖父のための特注品なのだと母が言っていた。昨日と同じように、布団の下に秘密の住人の入ったクッキーの空き缶を隠すことにする。まくった布団の下、パジャマから伸びる骨ばった細い足首に目がとまった。陸の記憶の中では、よく日に焼けていて真っ黒だったそこも、今はシーツの色と同じくらい白くなっている。陸は、祖父の足の下に手を入れて、ちょうど膝こぞの下あたりに置いておいたゴマアザラシのぬいぐるみを、ぐっと、太ももの下あたりにまで押し込んだ。うう、と祖父が低い声でうなる。それからベッドの高さを、自慢のリモコンを操作して少し下げた。そこまでやり終えて、布団をもとのとおりに掛け直した。ゴマアザラシのぬいぐるみの位置と、ベッドの高さを変えること。陸が、祖父のためにしてあげられることは少ない。
自分の部屋にランドセルを置きにいったときも、湖子姉のじゃがいもがやけに大きいカレーを食べていたときも、さっき見たシーツのように白い足首が、頭から離れなかった。そして、お風呂に入ってスポンジで膝に泡を立てていたときに、そっか、と陸は真崎の言葉を思い出した。
(……そっか。じいちゃんは、ヤモリみたいに、周りの環境に合わせて変色したのかもしれないな)

 

 

 

 

 

 2 へすすむ++おはなしTOPへかえる+