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陸が初めて真崎を自分の家に招待したのは、その次の週、真崎の習い事がない、よく晴れた日のことだった。 |
「もしかして、宝田はああいうおじいちゃんを見せたくないから、オレを家に入れたくなかった?」 部屋のドアを閉じた途端、真崎が口を開いた。この家に来て、祖父の部屋に入ってからずっと考えていたことなのだろう。陸は、うんと頷いた。 「見せたくなかったていうか、オレが見たくなかったんだ。真崎がじいちゃんを見て驚く顔とかさ。いまだにオレも、あのじいちゃんを受け入れてない部分があって」 陸の父は、仕事で単身赴任をして現在外国にいる。だから、小学校に入学したときぐらいから、祖父が陸の父親代わりになってくれていたのだ。キャッチボールも虫取りも祖父とした。玄関の天井にヤモリが張り付いているのを見つけて気持ち悪がった陸に、家守の話を聞かせてくれたのも、祖父だった。そんな陸にとって、祖父がニ年前に倒れ、ほぼ寝たきり状態になってしまったのはかなりショックな出来事だった。それでも半年くらい前までは意識がしっかりしていて話すぐらいはできたのだけれど。冬は越せないでしょう。今年はその言葉が現実になってしまうかもしれない。 「じいちゃんの尻のとこにあったの、見えた?」 「ああ……」 「あれ、ジョクソウって言うんだって。寝たきりだとずっと同じところに体重がかかっちゃうだろ? そうすると皮膚の細胞が圧迫されて死んじゃうらしいんだ。で、ああやって真っ黒になって、ひどくなると穴があいたりする」 思い出したのだろう、真崎の顔がゆがんだ。それでも祖父の今の状態はマシになったほうだった。弾力性のあるベッドに変え、陸がこまめにゴマアザラシのぬいぐるみを祖父の足の下に入れたり、ベッドの高さを調整したりする甲斐もあってか、じょじょに治ってきてはいるらしい。 「変なもの見せてごめん。気持ち悪かったろ?」 陸が軽く笑って言うと、真崎はまぶたをぱちぱちさせるクセを繰り返して、それから机の上に置きっぱなしになっているヤモリのゲージを見た。ヤモリがじぃっとあの大きな目でこちらを見つめていた。まぶたがないっていうのは、見たくないものがあっても見なくちゃいけないってことなんだ。ふと陸は思った。 「オレ、うまく言えないけど……びっくりした」 「うん、ごめん」 「宝田には悪いけど、気持ち悪いって思ったのも本当。……だけど、なんだかそれよりも……なんだか、すげえって思ったよ」 ヤモリのときと同じように、陸のすげえの口調を陸がマネして言った。ふざけた感じがしなかったのは、真崎の目がキラキラしていたからで、陸も同じように思ったことがあるからだった。すげえ、と。 「あんなふうになっても人間って生きてるんだ」 |
気持ち悪いとすげえは微妙に正反対のようで結構似ている。陸はそう、祖父と真崎に教えてもらったような気がした。あと、今手のひらの中で笑っている奴にも。 「クウ。空って書いて、クウって読むことにした」 「陸と空か。これで海がいれば完璧だな」 真崎の冗談めかした言い方に、陸はふふんと鼻を鳴らした。 「もちろん、完璧さ」 祖父の名前は、晴れた海と書いて晴海と書く。湖子姉も陸も、祖父の名前をもじって付けられたのだ。湖子姉は知らないかもしれないけれど、陸は祖父を無視する気はなかったので、ヤモリには空の名前を贈った。 そして、せっかく名前を付けたけれど、クウとの別れはすぐにやって来た。ハ虫類は冬眠をするのだ。ヤモリは他のハ虫類に比べて、冬眠を積極的に必要としないらしい。飼いながらでも冬眠をさせることは可能で、真崎がいろいろと調べてくれたりしたのだが、陸はクウを手放すことに決めた。たった一つ、ヤモリがいなくなったらもう真崎とは遊べなくなるような気がして、陸はそれだけが心配だったのだが、真崎はそれからもなんでもないふうに、陸の家に遊びに来るようになった。今ではすっかり母の大のお気に入りだ。単身赴任中の父がかわいそうになるくらいに。 家の中では絶対ゲージの外に出さないこと。という母との約束に従って、陸は庭にヤモリを放すことにした。短い間だったけれど、クウの身体は10センチ2ミリにまで成長していた。地面に下ろしたあとも、クウはなかなか動き出そうとしなかった。久しぶりに生の大地を踏みしめたクウの大きな目の中には、陸が映っている。クウは、べろっと長い舌を伸ばして眼球を舐めた。 「すげえ」 興奮した陸の様子に満足したように、クウは数回しっぽを振ると、夜の闇の中へと消えていった。 陸は忍び込んでくる寒さを、窓をきっちり閉めて追い払った。音を立てないように気をつけたつもりだが、何気なく目をやったベッドの上では、祖父のまぶたがしっかりと開いていた。じぃっとどこかを見つめてたまま動かない。あの目の中には何が映っているんだろう。どこかさっき見たヤモリの目に似ている気がして、冬眠が終わって春になったら、できたらまた陸の家の家守をしてほしいな、とクウのことを思った。またここの窓を開けておくから。 「じいちゃん、おやすみ」 陸は祖父の大きなベッドを迂回して、畳の上にそのままごろんと寝転がった。きちんと自分の部屋で寝なさい、と母にはもう何度もしかられている。でも陸は、祖父の部屋の、畳のい草のにおいが好きだった。吸い込むとなんだかほっとするにおい。さすがに本格的な冬が来たら、寒くてこんなところじゃ寝られないかもしれないとは、陸も思うけれど。 ちりん、と遠くに鈴の音を聞いた気がした。けれどまぶたは落下を止められず、とろとろと陸を夢の世界へと導いていった。熱を逃がさないように、陸はヤモリのように身体を丸めた。 |