ヤモリのまぶた  +  + 3

 

 

  3

 陸が初めて真崎を自分の家に招待したのは、その次の週、真崎の習い事がない、よく晴れた日のことだった。
 真崎は築20年を越える陸の家の外見になんだか感心したようにため息をついて、家の中が思ったよりもきれいなことに二度驚いていた。祖父のために改修工事をしたばかりなんだと説明すると納得していた。
「あら、いらっしゃい」
 祖父の部屋からひょっこりと顔を出して言われて、こんにちはと丁寧に、真崎は挨拶を返した。
「宝田のお母さんって、若いのな」
 どう見てもせいぜい20代前半ぐらいにしか思えない女性の姿に、まぶたをぱちぱちとさせている真崎に、陸は吹き出した。
「違う。今のはヘルパーさん」
「ヘルパーさん?」
 ホームヘルパー、と補足しながら、陸は真崎を家に上がるようにうながした。そのままヘルパーの消えた祖父の部屋へと案内する。
 間がよかったのか悪かったのか、祖父はちょうど、パジャマを脱がされて、清拭されている最中だった。母とさっきの女性が、祖父の身体を濡れタオルで拭いている。寝たきりでお風呂にも入れない祖父は二日に一度くらいのペースでこの清拭を受けている。かなり強くこすっているのか、うう、と時々祖父の小さなうめき声がもれた。
 部屋に入ってきた二人に気付いて、母が驚いたように顔を上げた。
「やだ、陸。こんなところにお友達連れてきちゃダメでしょ」
「こんにちは、お邪魔してます」
 こんな場所でこんな時でも、真崎が丁寧に頭を下げたので、母はなぜか少し赤くなりながらいらっしゃいと言った。みっともないところ見せちゃってごめんなさいね、とも言った。
「いえ。あの、少しここで見ていてもいいですか?」
 言うはずだった台詞を真崎に先越されたので、陸はかなり驚いて隣を見た。ひどく大人っぽい顔をした真崎が立っていた。視線の先には祖父がいる。昔は、日に焼けて真っ黒だったのに、今はシーツのように真っ白な肌をした祖父。真崎の真剣な様子に訝しげな顔を向けつつ、母は短く承諾して作業に戻った。
 祖父の手や足の指先まで、丁寧に拭かれていく。もちろん、普通なら絶対他人に触られるのをためらわれるような場所も忘れられることなくきれいに拭かれて、しかもそれが若い女性であるヘルパーによって行われたので、二人は部屋の隅でこっそり気まずい空気を共有した。お湯を使っているらしく、拭いたあとの祖父の肌が少し赤く浮き上がって見えた。
 身体の前面が拭き終わったので、母とヘルパーがよいしょと声を合わせて祖父の身体を半回転させた。祖父はやせ細っているとは言え、大人の男性であり、動かすのには結構力がいる。実際、陸の力では動かせない。触れていた真崎の肩がびくりと震えるのを陸は感じた。今、陸たちの位置からは、祖父の背中が見えていた。祖父の、右側の尻のあたり、そこの皮膚が黒く汚れ、陥没しているのが見えた。身体の裏面もまた同じように二人によって、丁寧に拭かれていく。
 陸は隣で呆然としている真崎のシャツの袖を引っ張って、立たせた。そのまま二階の自分の部屋へと連れて行く。あくまでも真面目な真崎は部屋を出るときに、お邪魔しましたと母たちに声を掛けるのを忘れなかった。

 

「もしかして、宝田はああいうおじいちゃんを見せたくないから、オレを家に入れたくなかった?」
 部屋のドアを閉じた途端、真崎が口を開いた。この家に来て、祖父の部屋に入ってからずっと考えていたことなのだろう。陸は、うんと頷いた。
「見せたくなかったていうか、オレが見たくなかったんだ。真崎がじいちゃんを見て驚く顔とかさ。いまだにオレも、あのじいちゃんを受け入れてない部分があって」
 陸の父は、仕事で単身赴任をして現在外国にいる。だから、小学校に入学したときぐらいから、祖父が陸の父親代わりになってくれていたのだ。キャッチボールも虫取りも祖父とした。玄関の天井にヤモリが張り付いているのを見つけて気持ち悪がった陸に、家守の話を聞かせてくれたのも、祖父だった。そんな陸にとって、祖父がニ年前に倒れ、ほぼ寝たきり状態になってしまったのはかなりショックな出来事だった。それでも半年くらい前までは意識がしっかりしていて話すぐらいはできたのだけれど。冬は越せないでしょう。今年はその言葉が現実になってしまうかもしれない。
「じいちゃんの尻のとこにあったの、見えた?」
「ああ……」
「あれ、ジョクソウって言うんだって。寝たきりだとずっと同じところに体重がかかっちゃうだろ? そうすると皮膚の細胞が圧迫されて死んじゃうらしいんだ。で、ああやって真っ黒になって、ひどくなると穴があいたりする」
 思い出したのだろう、真崎の顔がゆがんだ。それでも祖父の今の状態はマシになったほうだった。弾力性のあるベッドに変え、陸がこまめにゴマアザラシのぬいぐるみを祖父の足の下に入れたり、ベッドの高さを調整したりする甲斐もあってか、じょじょに治ってきてはいるらしい。
「変なもの見せてごめん。気持ち悪かったろ?」
 陸が軽く笑って言うと、真崎はまぶたをぱちぱちさせるクセを繰り返して、それから机の上に置きっぱなしになっているヤモリのゲージを見た。ヤモリがじぃっとあの大きな目でこちらを見つめていた。まぶたがないっていうのは、見たくないものがあっても見なくちゃいけないってことなんだ。ふと陸は思った。
「オレ、うまく言えないけど……びっくりした」
「うん、ごめん」
「宝田には悪いけど、気持ち悪いって思ったのも本当。……だけど、なんだかそれよりも……なんだか、すげえって思ったよ」
 ヤモリのときと同じように、陸のすげえの口調を陸がマネして言った。ふざけた感じがしなかったのは、真崎の目がキラキラしていたからで、陸も同じように思ったことがあるからだった。すげえ、と。 
「あんなふうになっても人間って生きてるんだ」 

 

 

 気持ち悪いとすげえは微妙に正反対のようで結構似ている。陸はそう、祖父と真崎に教えてもらったような気がした。あと、今手のひらの中で笑っている奴にも。
「クウ。空って書いて、クウって読むことにした」
「陸と空か。これで海がいれば完璧だな」
 真崎の冗談めかした言い方に、陸はふふんと鼻を鳴らした。
「もちろん、完璧さ」
 祖父の名前は、晴れた海と書いて晴海と書く。湖子姉も陸も、祖父の名前をもじって付けられたのだ。湖子姉は知らないかもしれないけれど、陸は祖父を無視する気はなかったので、ヤモリには空の名前を贈った。
 そして、せっかく名前を付けたけれど、クウとの別れはすぐにやって来た。ハ虫類は冬眠をするのだ。ヤモリは他のハ虫類に比べて、冬眠を積極的に必要としないらしい。飼いながらでも冬眠をさせることは可能で、真崎がいろいろと調べてくれたりしたのだが、陸はクウを手放すことに決めた。たった一つ、ヤモリがいなくなったらもう真崎とは遊べなくなるような気がして、陸はそれだけが心配だったのだが、真崎はそれからもなんでもないふうに、陸の家に遊びに来るようになった。今ではすっかり母の大のお気に入りだ。単身赴任中の父がかわいそうになるくらいに。
 家の中では絶対ゲージの外に出さないこと。という母との約束に従って、陸は庭にヤモリを放すことにした。短い間だったけれど、クウの身体は10センチ2ミリにまで成長していた。地面に下ろしたあとも、クウはなかなか動き出そうとしなかった。久しぶりに生の大地を踏みしめたクウの大きな目の中には、陸が映っている。クウは、べろっと長い舌を伸ばして眼球を舐めた。
「すげえ」
 興奮した陸の様子に満足したように、クウは数回しっぽを振ると、夜の闇の中へと消えていった。

 陸は忍び込んでくる寒さを、窓をきっちり閉めて追い払った。音を立てないように気をつけたつもりだが、何気なく目をやったベッドの上では、祖父のまぶたがしっかりと開いていた。じぃっとどこかを見つめてたまま動かない。あの目の中には何が映っているんだろう。どこかさっき見たヤモリの目に似ている気がして、冬眠が終わって春になったら、できたらまた陸の家の家守をしてほしいな、とクウのことを思った。またここの窓を開けておくから。
「じいちゃん、おやすみ」
 陸は祖父の大きなベッドを迂回して、畳の上にそのままごろんと寝転がった。きちんと自分の部屋で寝なさい、と母にはもう何度もしかられている。でも陸は、祖父の部屋の、畳のい草のにおいが好きだった。吸い込むとなんだかほっとするにおい。さすがに本格的な冬が来たら、寒くてこんなところじゃ寝られないかもしれないとは、陸も思うけれど。
 ちりん、と遠くに鈴の音を聞いた気がした。けれどまぶたは落下を止められず、とろとろと陸を夢の世界へと導いていった。熱を逃がさないように、陸はヤモリのように身体を丸めた。

 

 

 

 

 

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