ヤモリのまぶた  + 2 + 

 

 

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 次の日、真崎が約束どおり持ってきてくれた虫取りゲージは立派なやつで、ヤモリもクッキーの空き缶から引っ越すときには心なしか喜んでいるように見えた。と言っても、ヤモリの口元はいつも笑っているようにつり上がっているので、本当はどう思っているのかはわからなかったけれど。どんなに嫌なことがあっても笑顔でいられるなんて得だよなと、陸はうらやましく思ったりもした。
 祖父の足元に隠してあった秘密の住人の存在は、結構すぐに、祖父の部屋を掃除をしていた母にばれた。きちんと面倒を見ること、家の中では絶対ゲージの外に出さないこと、という約束を固くして、ヤモリはこの家の正式な家族となった。
 ヤモリをきっかけに、陸は真崎と学校でもよく一緒にいるようになった。最初のうちは和人たちや女子たちからの視線が痛かった。陸自身も意外な組み合わせだなと感じているぐらいだから無理もない。勉強は大得意で運動はやや苦手な真崎と、勉強はやや苦手で運動はそこそこ得意という陸とでは微妙に正反対で、うまく結びつかないのだろう。唯一の接点はヤモリだったりするのだが、陸はまだそのことを学校では秘密にしていた。真崎も口を合わせてくれているようだ。
真崎には、陸が何も言わないようなことでも理解している、というか、何かあるんだろうと感じ取ってくれているようなところがあった。ちなみにそれは、真崎曰く、年の離れた兄弟がいることが関係しているのではないかと。陸に8歳上の湖子姉がいるように、真崎にも10歳年上の兄がいるのだそうで、年長者と話す機会が多いと、不思議と思考が似てくるんだよな、なんて苦笑いをする真崎はひどく大人っぽく見えた。ただし、ヤモリと一緒にいるときの真崎は例外だ。あの真崎は、あえて言うなら、女子高校生を見てでれでれと鼻の下を伸ばすオヤジっぽく見えた。

 一週間に一度、真崎の習い事がない日に、学校から帰った陸は、ヤモリを連れてあの草が伸び放題の児童公園で待ち合わせするのが習慣になりつつあった。そして一ヵ月くらい経ったある日、大粒の雨が空から降ってきたときに、陸は初めて真崎の家に招待された。
 真崎の家は、町内でも有名な高級マンションの最上階にあった。入り口の玄関ホールには警備員みたいな人が立っていて、それだけでも陸のどきどきは頂点に達した。真崎が一緒じゃなかったらとても来れそうにないと思う。鉄筋コンクリートで固められたマンションの中は、どれもこれもが大きく広く造られているようだった。自分の家とのあまりの違いにきょろきょろと辺りを観察しているうちに、陸はうっかり目を回しそうになった。

 エレベーターをちんと鳴らせて到着した真崎の家には、誰もいなかった。両親は共働きだし、10歳年上の兄も社会人で一人暮らしをしているのだそうだ。玄関を入ってすぐに色とりどりの熱帯魚が泳ぐ巨大な水槽があったけれど、女子たち噂の珍しいカメはいなかった。通された真崎の部屋で、無造作に最新ゲームが積み上げられているのを見つけて、陸は目を輝かせた。真崎はヤモリと引き換えに、快く陸にゲームを貸し出してくれた。
 しばらくはお互いのことに熱中していた。どれくらいの時間が経ったのか、とりあえず真崎の家は普通より高い位置にあったので、太陽が沈むのがいつもより遅く感じられたのだけど、ふと、机の上でヤモリとにらめっこをしていた真崎が呟いた。
「ヤモリって、まぶたがないんだ」
 そういえば、とコントローラーを握り直しながら陸も思う。いつヤモリを見ても、大きな目を外に出しっぱなしにしているような気がする。
「で、眼球とか乾かないのかなって前から気になってたんだけど、その謎が今解けた」
「なになに」
 待機のボタンを押してゲームを途中で放り出し、陸は真崎に近寄った。
 べ、と赤い舌を真崎が出した。なんだ、話題を振っておいて教えてくれないのか、案外ずるいなと陸が不機嫌そうに顔をしかめると、違う違うと笑いながら、真崎が伸ばした舌を指差した。
「これを使うんだ。長い舌で目を舐めるんだよ、べろって」
「……うそ、マジで?」
「うん、マジで。オレは今確かに目撃した」
「……すげえ。ああっもっと早く教えてくれればよかったのに!」
 そのあと、ゲームに熱中していたさっきまでのことはすっかり忘れて、陸は真崎と一緒になってヤモリのゲージにかじりついた。ヤモリは、真崎の助言で設置した紙コップの家の中に引っ込んでしまって、結局、舌で眼球を舐めるシーンを目撃することはできなかった。
下まで送っていこうかという真崎の申し出を断って、一人で部屋を出た。陸の部屋と同じくらい広いんじゃないかと疑うエレベーターで落下しながら、陸は急に理解できた。真崎がヤモリを見て目をキラキラさせたり、でれでれと鼻の下を伸ばす理由。確かに、ここに家守はいないだろうなと。

 

 

 ちりん、と鈴の音がした。陸が振り向くとすぐ後ろに湖子姉が立っていた。手にしているピンク色の携帯電話に鈴のキーホルダーが付いている。大学生になってから、高校生のときよりも帰ってくる時間が早くなったような気がする。
「だっておじいちゃんずっとあんな調子だし、お母さん一人じゃ、大変でしょ?」
 ただいまの前に、陸の隣にやってきてしゃがみこんだ湖子姉は言った。それに、と続けて、湖子姉は言葉を濁した。これ以上子どもに言っても仕方ないか、と顔に書いてあったので、なに? と陸は先をうながす。
「おじいちゃん、もうダメだろうって。覚悟決めてくださいってお医者さまに言われたんだって」
 だから少しでもそばにいられるようにと思って。湖子姉はそこまで言って、ぶるっと肩を震わせて薄手のコートの前を合わせた。陸はずっと背後の部屋の窓を開けっぱなしにしていることが気になっていた。この話が聞こえていたからと言って何か変化があるとは思えなかったけれど、冷たい風は身体に障るだろうと思った。
「で、あんたはこんなとこで何してるの?」
「こいつのエサ、探してる」
 こいつ、を見て、湖子姉の眉が真ん中に寄った。
「なに食べるの? こいつは」
「コオロギとか、虫」
 さらに眉が寄った。
 会話が途切れても湖子姉が隣から動かないでいるので、陸は不思議に思った。
「あ、そうだ。こいつに名前つけようと思ったんだけど、何がいいと思う?」
 いつまでもヤモリやこいつじゃ失礼だと真崎に言われたのだ。湖子姉に聞いてみたのは、なんとなくだった。そうねえ、と湖子姉は少し考える風にしてから、空とか海とかがいいんじゃない? と言った。
「え」
「私が湖で、あんたが陸だから」
 空とか海とか。ゲージのうちのヤモリにはこの話が聞こえているだろうか、そんな名前を付けたらどう思うだろうか。陸が想像していると、湖子姉は寒さの限界が来たのか、先に家の中入ってるねと立ち上がった。ちりん、という鈴の音に引かれて、陸もあとに続く。
「あれ、エサは?」
「あとでガでも捕るからいい」
 前を行く湖子姉の表情は、残念ながら、陸の位置からは見えなかった。ただ、今、あの細い眉は繋がってるんじゃないだろうかと想像して、陸は少しおかしくなった。

 

 

 

 

 

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