日本の首都を訪ねて
更新履歴
2009.11.10 恭仁京を追加
2009.10.12 紫香楽宮を追加
2009.10.4 長岡京を追加
2007.6.3  福原京を追加
2007.2.24 大阪歴史博物館を追加

現在の日本の首都  東京  皇居二重橋   2006.10撮影

現在の日本の首都は東京と言うことになっている。
過去において日本の首都は、時代の移り変わりとともに替わって来た。
古代には、天皇の住まいは一世ごとに移転され、宮(みや)と呼ばれる宮殿があった。

後には、中国王朝の影響で京(みやこ)が造営されるようになり、天皇は京の中の内裏(だいり)にお住まいになり、これを皇居としたそこは、政治の中心でもあった。つまり、皇居のあるところが、「首都」であった。
都を移すことを、「遷都」といい、天皇の「詔(みことのり)」が発せられる。
都を平安京に移すという、桓武天皇の「詔」以降、実は「遷都」の「詔」は出ていない。
それには歴史上のいろんな問題があるのだが、それでもって、日本の首都は今なお、京都であるという説もある。

天皇の在所を示す玉座である高御座(たかみくら)が安置されているのは今も京都御所である。
1990年(平成2年)に、現在の天皇の即位の礼が東京で挙行された時は、京都から一時的に運んだ。
そして、日本の首都を東京とする法律は、今なお、発布されていない。
過去の首都を訪ねてみようと思い立った。時間はかかりそうだが、そこに立って何を思うか。



1.日本の首都の変遷
年代 名称 場所 天皇 備考
4〜5
世紀頃
難波高津宮

(なにわこうづぐう)
大阪市
中央区
仁徳天皇 上町大地に倉庫群があった。四天王寺(593年)が出来たのもこの頃。
陵墓は堺市にある「仁徳天皇陵」
大阪市中央区にある「高津宮」は、866年に勅命により難波高津宮の跡地を探索し、その地に仁徳天皇を祭神とする社殿を建てたのが起源。社殿は秀吉の命により、その後、現在地に遷座した。
592年 飛鳥京

(あすかきょう)
奈良県
明日香村
舒明天皇 3期に亘り宮が築かれていた。飛鳥板蓋宮跡 (あすかいたぶきみやあと) 等。
跡地は国営飛鳥歴史公園となっている。
645年 前期.難波宮

(なにわのみや)
大阪市
中央区
孝徳天皇 大化の改新により飛鳥から難波宮に移転し、豪族支配から天皇支配に変った。日本では初の宮殿形式の建物(掘立柱、草葺屋根)であった。
655年 飛鳥京

(あすかきょう)
奈良県
明日香村
斉明天皇 川原宮、後岡本宮 等
667年 大津京

(おおつのみや)
滋賀県
大津
天智天皇 滋賀県大津市錦織の遺跡。
672年 飛鳥京

(あすかきょう)
奈良県
明日香村
天武天皇 飛鳥浄御原宮  天武天皇と持統天皇の二代。
694年 藤原京

(ふじわらきょう)
奈良県
橿原市
持統天皇 日本史上最初の条坊制を布いた本格的な中国風都城。持統・文武・元明の三天皇が居住
710年 平城京

(へいじょうきょう)
奈良県
奈良市
元明天皇 奈良の都。唐の都「長安」をモデルにつくられた
当時は、平城京と書いて「ならのみやこ」と読んだ。
特別史跡(平城宮跡(へいじょうきゅうせき))として保存されている。
740年 恭仁京

(くにきょう)
京都府
相楽郡
聖武天皇 都としては完成しなかった
744年 後期.難波宮

(なにわのみや)
大阪市
中央区
聖武天皇 瓦葺の離宮   難波宮史跡公園
745年 紫香楽宮

(しがらきのみや)
滋賀県
甲賀市
聖武天皇 わずか5ケ月で平城京に移る
745年 平城京

(へいじょうきょう)
奈良県
奈良市
聖武天皇  
784年 長岡京

(ながおかきょう)
京都府
長岡京市
桓武天皇 近年まで「幻の都」と言われていたが、平城京、平安京と並ぶ京域を持つ都であったようだ
794年 平安京

(へいあんきょう)
京都市 桓武天皇 東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城
1180年 福原京

(ふくはらきょう)
兵庫県
神戸市
(安徳天皇) 平清盛が強引に遷都。6月〜11月のわずか半年であった
1180年 平安京

(へいあんきょう)
京都市 (安徳天皇)  
1868年 東京府

(とうきょうふ)
東京 (明治天皇) 明治維新により首都機能は東京へ
1943年〜 東京都

(とうきょうと)
東京 (昭和天皇) 東京都制により呼称が変っただけ
リンクは下記の往訪した写真に貼っています。



難波高津宮跡
どこにあったのかは、諸説があり、今も確定されていないが、後の難波宮と同じく、上町台地の法円坂一帯という説が有力。
大阪市中央区に、 高津宮(こうづぐう)という神社がある。その縁起は、平安初期の(貞観8年)清和天皇の勅命により、仁徳天皇の旧都の遺跡を探索し、現在の大阪城付近を社地と定め社殿を築き、仁徳天皇を主神として祭ったのを創始としている。よって、その時は大阪城付近だったと推定されたことになる。
高津宮は、その後、豊臣秀吉の大阪城築城に際し、現在地(大阪市中央区高津1-1-29。地下鉄谷町九丁目駅近く)に遷座した。
現在、「高津宮址」の石碑は、大阪府立高津高校の校庭にある。
この石碑は、1899年(明治33年)「仁徳天皇1500年祭」を記念し、高津宮所在地の諸説を按配して(笑)、当時の東区東高津餌差町に建てたが、その後、道路拡張工事のため、現在地に移されている
表門鳥居
町中にあり、鳥居は道路に直面している
参道
本殿 高倉稲荷神社


飛鳥京跡
現在の奈良県高市郡明日香村一帯にあったと想定される。いくつもの宮が歴代に亘ってこの地区に造られたようで、それぞれに発掘されている。名前もいくつもあり、それらを総称して飛鳥京と言われている。
全体的に計画されて作られたものでないので、地理的な確定もまだ。
周辺は、国営飛鳥歴史公園 として、発掘調査や公園としての整備が進んでいる。
明日香村一帯の散策
百寺巡礼 飛鳥寺
石舞台 飛鳥寺
伝飛鳥板葺宮跡 伝飛鳥板葺宮跡 


難波宮跡
前期、後期と時代を経て別れるが、同じ場所に建てられた。
大阪城の近くにある 大極殿跡が復元されている。遠くに大阪城が見える。
とにかく広い公園 当時の倉庫蔵が復元されている。
後方は、大阪歴史博物館
大阪歴史博物館
難波宮跡の近くにあり、難波宮の歴史を知ることが出来る。建物の設計はシーザー・ペリ他。
難波宮跡全景
左の「舞台」見たいな所が大極殿跡
後期難波宮の模型
中央の建物が大極殿。
復元した大極殿内部



藤原京跡
規模は、5.3km四方で少なくとも25平方キロあり、平安京(23平方キロ)や平城京(24平方キロ)をしのぎ、古代最大の都であった。大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香具山)を内に含む規模である。
藤原宮は、南北約600m、東西約240mにおよぶ日本で最大の規模を持つ朝堂院遺構である。
奈良県橿原市高殿町に藤原宮の大極殿(だいごくでん)の土壇が残っており、周辺は史跡公園になっている。
近くに本薬師寺(もとやくしじ)跡−国特別史跡がある。現在の薬師寺は、藤原京右京八条三坊に在ったと言われている。今はホテイアオイで有名。
花のギャラリー参照
特別史跡の表示板 大極殿跡 それ以外は何もない
手前の低い山が天香久山
「春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山」
の持統天皇の歌で有名
畝傍山
何もないひろっぱが広がる


紫香楽宮
奈良時代、聖武天皇が近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市信楽町)に営んだ離宮。後に甲賀宮(こうかのみや)とも称され、都となった。
余りに山奥である事から、ここを都としたことを巡っては諸説がある。
宮名が「信楽宮」(続日本紀では「紫香楽宮」)から「甲賀宮」へと変化しており、これは単なる離宮から甲賀寺と一体の都とされたことにより宮名が改められたか、離宮の紫香楽宮とは別に宮町遺跡の地に甲賀宮が造営されたものとも言われる。
最近では国史跡・紫香楽宮跡の北約1kmに位置する宮町遺跡から大規模な建物跡や税納入を示す木簡が大量に出土したことから、ここが宮跡の有力地となっている。
国史跡・紫香楽宮跡は甲賀寺(甲可寺)跡であるという説が有力である
国史跡・紫香楽宮跡の表記 広い場所
講堂跡等、随所に基石が残っています
金堂跡
この社には、「紫香楽宮」の額が架かっている
宮町遺跡辺り(?)
調査の後は、現状に戻しているとのこと。
資料館は残念ながら閉館していた。



平城京
現在の奈良県奈良市および大和郡山市あたりにかけて建設された。

平城宮(大内裏)は朱雀大路の北端に位置し、そこに朱雀門が設置された
寺院建築は非常に多い。京内寺院の主要なものは、大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺(以上を四大寺と称した)で、
これらは藤原京から遷都に際して順次移転されたものである。
東大寺は東京極大路に接した京域の東外にあり、聖武天皇によって752年に創建、
西大寺は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年(765年)に創建された。
これらに法隆寺を加えて七大寺(南都七大寺)と称する。
朱雀門は多分3回目位の往訪。いつ見ても華やかである。今回は、初めて遺跡展示館と東院庭園にも行った。現在、大極殿が工事中である。この広さと情熱には、とにかく奈良というのはスゴイと言うのを感じる。何十年か後に、復元はかなりすすむのだろうけれど、まさに異質の世界が再現されようとしている、今でも立つ位置によっては、悠久の彼方に運ばされる感じがする。この復元工事の意味を考えると、敬意を感じる。多分、我々の世代は完成を見ることはないのだろうけれど。ガンバレよなと声をかけたくなる。復元出来たときに、人々は、そこに何を感じ、何に感動するのか、単に昔が再現出来たという以上の物を感じることが出来ると思う。それも人間の叡智である。壮大なロマンを感じると体が震える。−15.8.10−
跡地は、順次整備されています。
西暦2010年に「平城遷都1300年」を迎える行事があるようです。

恭仁京
奈良時代の一時期、都が置かれた山背国相楽郡の地。現在の京都府木津川市に位置する。
1957年7月1日「山城国分寺跡」として、国の史跡に指定された。その後の学術調査の進展に伴い
2007年2月6日付で史跡指定範囲が拡大され、指定名称も「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」
に変更された。わずか3年余りの都であった。
万葉集に「三香(みか)の原 布当(ふたぎ)の野辺を 清みこそ 大宮ところ 定めけらしも」とある。
今も、心落ち着く風景が残る。
史跡山城国分寺跡
七重塔があったと言われる。塔の礎石跡。
コスモス畑が広がる
史跡の表示版
大極殿跡 近くの恭仁小学校
校舎がいい感じです
少し狭いけれど、ここに都を造りたかった聖武天皇の気持ちも分かる、いい雰囲気です。 海住山寺の方向
山の少し登った所に、案内の表示板が見える。


長岡京
宝亀元年(西暦770年)、称徳天皇の死によって壬申の乱以来続いた天武天皇の皇統は途絶え、新たに天皇となったのは天智天皇の孫にあたる光仁天皇でした。
その後、新たに皇太子に擁立されたのが、山部親王、後の桓武天皇です。
父は光仁天皇、母は渡来系の氏族を祖とする高野新笠です。天応元年(西暦781年)、45歳で天皇に即位しました。
中国の思想に強い影響を受けた桓武天皇は、父、光仁天皇以来、天智系に皇統が代わったことを革命と捉え、革命にあたって都を遷すべきと考えました。
延暦3年(西暦784年)11月11日、平城京から水陸交通の至便な乙訓郡長岡村(向日市、長岡京市、大山崎町、京都市の一部)に、都を遷し、長岡京と名付けました。

長岡宮の宮域は、北を一条大路(または北京極大路)、南を二条大路、東西を両一坊大路で囲まれる東西約1キロ・南北約1.6キロの地域で、宮内には内裏・朝堂院をはじめ二官八省の建物が建てられました。そして、朱雀大路の東を左京、西を右京とする東西約4.3キロ、南北約5.3キロの広大な京が設けられました。
わずか10年でその幕が閉じられました。延暦13年(西暦794年)、突如平安京へ遷都が断行されたのです。
長岡宮跡 向日市鶏冠井町には大極殿(だいごくでん)という地名があります。大極殿は1200年以上も前の建物で、その名称が今も地名として残っています。
大極殿は、天皇が政治を司った場所で、発掘調査によってその位置が確認されました。
昭和39年に国の史跡に指定され、現在は大極殿公園として整備されています
大極殿公園 後殿跡
大極殿の北側に建てられた建物が小安殿です。大極殿の後ろの建物を意味することから後殿とも呼ばれています。天皇の休憩所として用いられました。
今は、大極殿との間に道路があります
朝堂院跡
宮の中央にあって国家的な儀式を行う場所で、今の国会議事堂に相当します。
西第四堂跡は、昭和57年の発掘調査により確認されました。平成4年に国の史跡に追加指定され、現在は、公園として整備されています


福原京跡
1180年6月2日に京都の治安に不安を抱いた平清盛が遷都を強行。わずか半年の「遷都」であった
荒田八幡神社内の
安徳天皇行在所跡の石碑
荒田神社内の
福原遷都八百年記念の碑
1980年6月3日に「神戸史談会」により建立
荒田八幡神社
平清盛の弟の別荘があった場所。
薬王山 宝地院
安徳天皇の菩提を弔うために、1279年に立てられた。




平安京跡
平安京は、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。
平安京跡は、現在の平安神宮とは別の所である。いつか訪れたい。

平安神宮は,平安遷都1100年を記念して,明治28年(1895)に第50代桓武天皇を祀って創建された。 その後,皇紀2600年にあたる昭和15年(1940)に,京都での最後の天皇,第121代孝明天皇が合祀された。
平安京について−百寺巡礼
太極殿 桓武天皇が開かれた当時の平安京正庁の朝堂院を8分の5の規模で再現したもの
お庭はこちら
平安時代の応天門を模した、
大きく赤く光る朱色の正面の門。
参道の鳥居は24.2mの高さがある
平安神宮 茅の輪(ちのわ)くぐり
應天門(神門)

夏越し(なごし)の大祓に茅の輪をくぐって厄を逃れる習慣。
今、平安神宮にあります。(いつまであるのか分かりません..)
左、右、左と3回くぐります。

水無月の 夏越の祓いする人は
千年(ちとせ)のいのち のぶといふなり
2006.6


戻る