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國語問題最近の十年を顧みての戰略提案

―正統表記の復活を目指して―

平成十五年四月十九日      

 

國語の專門家でもない私が、歴史的假名遣・正漢字をパソコン上で操作できる正統國語ソフト「契冲」を開發し、それが御縁で國語問題協議會の活動にも參加させて頂くやうになつて早、十年の歳月が過ぎました。最近ではインターネットにも正統表記を標榜するサイトも多くなり、福田恆存著「私の國語教室」文庫版の復活や、國語問題協議會編纂の正統表記版「平成新選百人一首」の發刊など慶賀すべき動きも出て來てをります。この勢をさらに加速して、歴史的假名遣・正漢字の復活を果し、日本の再生に繋げて行きたいものです。

 

ただ現實の問題として、今や歴史的假名遣・正漢字を日常殆ど目にすることができない事實を私たちは先づ直視する必要があるのではないでせうか。即ち、誰も目にしない歴史的假名遣・正漢字の正統性や合理性を如何に理路整然と説いても、大きな流とはなり難い事情があります。從つて今求められるのは世間の理解と共感を得る爲の戰略だと思ひます。敢て僭越を顧みず、私の實戰的戰略論を以下御目に掛ける次第であります。

 

           

基本戰略の第一は私達庶民大衆からの國語復活である。戰後の國語改革が國語審議會建議、内閣告示といふ行政權力により進められたことから、國語の復活も同じ手順で行ふべきであるとする識者が多い。しかしこのやうな「上から」の改革が決して成功しないことは、戰後の國語改革の目標であつた漢字の廢止が中途半端に終つただけでなく、宛字、交ぜ書きなどの混亂をもたらし、國語自身も一向に改善されなかつたことからも明らかである。

庶民大衆からの國語復活といつても、歴史的假名遣・正漢字が現在の庶民大衆に無縁であることも事實である。しかし、これは單に目にしてゐない、教へられてゐないだけのことで、理解・修得ができないといふことでは決してない。兔角庶民大衆を知的弱者と看做し、自らをその救濟者と位置附けるやうな夜郎自大的な前提から國語問題を論ずる限り解決はあり得ない。正統表記による文書を少しでも多く世間一般に提供する、これこそが絶對不可缺の要點であり、「契冲」開發の意圖もこゝにあります。「契冲」を使用すれば、和歌や俳句の制作はもとより、手紙や論文、インターネットへの發信など誰でも簡單に正統表記を實踐できるので、個人レベルでのかうした活動が生み出す國語の復活への無數の萌芽が大樹に成長することを期待したい。

 

     

基本戰略の第二は特に戰後國語や言語に關してなされた言論の多くに就いて、その妥當性を再吟味することである。前述のやうに大衆を知的弱者視し、「歴史的假名遣や正漢字は大衆には習得不能である」として排斥し、中國の簡體字を始め、諸外國でも大衆紙と高級紙とでは語彙を異にする事實などを擧げて、表記の「民主化」と稱し「難しい漢字や假名遣は習はせない」教育を進めてきたのは愚民化政策ではなかつたのか、檢證が必要である。

この他「言葉は變化するもの」、「言語は意思疏通の手段」、「表音文字こそ文字の進化の最終形態である」など極く一般化してゐる觀念にも批判と吟味を加へる必要がある。といふのもこれらが現代表記を無意識的に容認する温床となつてゐるからである。例へば「言葉は變化するもの」を無批判に受入れてしまふと、「現代國語」と「古文」とは別物であり、古文の研究には歴史的假名遣が必須となるが、現代文に就いては内閣告示が規範と考へてしまふため、國語表記問題への無關心を招くことになる。「言葉は變化する」のは表面上の現象に過ぎず、語法・文法の根幹は易つてゐないと認識すれば歴史的假名遣への理解が深まるであらう。また「言語は意思疏通の手段」を唯一の定義と受入れると、音聲言語に近い口語を國語の本質部分と捉へ、「表音文字こそ文字の進化の最終形態である」と短絡して、文語とその表記である歴史的假名遣・正漢字は未開時代の歴史的遺産として分離し、現代表記を進化した書き方と考へるやうになる。言語には意思疏通だけでなく、民族の文化や個人の知的發達に大きな役割があること、表音文字は發音記號でさへ完全ではなく、アルファベットのスペリングは歴史的假名遣と同じ原理であることなど、もつと強調されなければならない。

     

基本戰略の第三は上述の批判を通して、國語を過去、現在、將來を通じての連續的統一體として認識することである。これは單に時間的な連續性だけでなく、表記といふ水平的な統一體をも意味する。識者の中には、戰後の國語改革を批判しながらも、字音假名遣や正漢字に就いては、謂はゆる國語假名遣と區別して、その復活を否定する向きも多い。しかし、例へば字音に現代假名遣を導入すると、「地面」は「めん」となり、また古典に於ける「ほ(法師)」、「うそこ(消息)」、「もく(除目)」などの表記を變更する譯にも行かず、結局現代文のみへの適用となり、歴史的假名遣の本質である連續性が失はれてしまふ。また漢字の運用に「常用漢字」を殘せば、「掩護(えむ)」と「援護(ゑん)」、「證書(しようしょ)」と「証書(しやうしよ)」など字音假名遣に混亂が生ずるし、略字を採用して「擔」を「担」とすると、聲符の「旦()」からでは本來の韻()が類推困難となる。勿論手筆に於ける略字の使用は許容すべきであるが、印刷或いはパソコン畫面に表示された正字體を意識しながらの簡略化でなくてはなるまい。

     

基本戰略の第四は幼兒期から「漢字で教へる」石井式漢字教育の普及である。幼兒期であれば、漢字の修得は驚く程容易であるといふこの教育法の效果は科學的に證明濟であるのに、國語改革の體面保持のためか、公教育への適用が進んでゐないのは國家的機會損失である。漢字で書くものは漢字で教へれば、初等教育での假名遣學習を合理的に效率化することもできる。漢字による動植物名の教育、字音假名遣ルビの活用も同時に重要である。特に強調したいのは、漢字や假名遣の教育といふと、直ぐ「如何やつて書かせるか」が問題となるが、實は「如何聲に出すか」を教へるのが初等教育の眼目である。「徳川家康」は「とくがわ」であるが、同じ川でも「市川團十郎」は「いちかは」と濁らないのは理窟ではなく國語の約束でありこれを修得することが、國語の文化に生きる者の初心の務めではなからうか。「如何書くか」はその次の段階であると。

     

基本戰略の第五は歴史的地名の保存である。最近の市町村合併で由緒ある地名が消滅する例が頻發してゐるだけに、特に重要である。更に地名は語原や假名遣が遺る無形文化財であり、「甲斐」、「出羽」、「碓氷」、「磐城」などは「かひ」、「では」、「うすひ」、「いはき」と歴史的假名遣と共に保存すべきである。これに關聯して、鐵道の驛名の假名書きに歴史的假名遣を復活できればその效果は大きい。「現代假名遣」の内閣告示前書き第四項には「固有名詞などでこれにより難いものは除く」と明記されてをり、歴史的地名は保存上現代假名遣には據り難いのは明らかであり、これらの施策は現行制度上でも十分實施できる筈である。

           

 

以上が私の考へる國語の復活戰略です。一人でも多くの方がこの戰略に色々な形で御參加下さることを願つて已みません。

 

 

市 川   

昭和六年生れ

平成五年 有限會社申申閣設立。

正假名遣對應日本語IME「契冲」を開發。

國語問題協議會常任理事、文語の苑幹事、契冲研究會理事。

これまでの私の主張(ホームページ掲載分)

電腦時代を支へる契冲・宣長の偉業

昭和の最高傑作 愛國百人一首飜刻  たまのまひゞき  出版に協力して

文字鏡契冲と國語問題

文化と歴史的假名遣

文語の苑掲載