私の主張 平成二十九年八月二十一日更新 (これまでの分は最下段) 「契冲」のホ-ムペ-ジに戻る
正念場を迎へた正字・正かな
市川 浩
「國語國字」第二百七號 平成二十九年五月一日
市川浩
正字・正かな運動は今や正念場を迎へてゐる。行政による表記を含む言語統制の強化、オリンピック・パラリンピックの東京開催や小學校の英語必修等に絡むローマ字問題などで、國語表記の問題が矮小化し、世間の無視を招いてゐる。その隙を狙つて、正かな表記の古典に表音ルビを振るといふ親切<RUBY CHAR="御貸","ごかし">の改惡が出版社を卷き込んで進んでゐる。「加(くは")ふ」に對して「加ふ(くわう)」と振る、實に見苦しいけれども批判する人がないのを好いことに、「結果として」文語文の新字・新かな化が既成事實化しつゝある。
先づ我々の運動が何ゆゑ無視されるのかを考ふるに、本心は正字・正かな反對でも論爭になれば負けるから無視を決め込む戰法が各種の行政審議會のみならず博く普及して、正字・正かなの主張そのものが、空振りを餘儀なくされてゐる。そのため嘗ては聲高の表音派に果敢に挑むべく、正字・正かなの理論學習にも勵んだものが、無視されて論爭の機會もなくなるに從ひ、この運動の據つて立つ理論的根據を琢くことも激減してしまつた。
しかし世間の無視にはもう一つの要素があるやうに思ふ。それは正字・正かなは「難しい」といふ先入觀である。例へば、「新かなの内閣告示を覆すのは難しい」など、「難しい」とは殆ど不可能を意味し、特に教育の現場では「難しい」ことは兒童生徒の學習負擔を過大にする最も良くないこととされ、「難しい」とさへ言へば、言つた者勝ちとなつてしまふ傾向が強い。では一體正字・正かなは何が難しいのかと問へば、先づ漢字ではなべて畫數が常用漢字に比べて多い、假名遣では同じ假名に發音が複數あるので「難しい」と答ふるであらう。しかし、明治の學制發布から昭和の敗戰に至るまで、教育は正字・正かなで行はれ、世界有數の識字率を達成した。當時の人達の讀解力が現在の新かな世代の若い人達より劣つてゐたとは考へ難い。私の經驗でも小(國民)學校で漢字の書取はあつても假名遣は作文でたまに指摘がある程度で、體系的には中學校の文法で纔かに習つたのみであるが、それでも難しいぞと言はれた記憶はない。どうも「難しい」と言ふのは、哲學とか近代口語自由詩などで難解な文言が氾濫したことを受けて、「國語が難しい」となり、それが何時の間にか「漢字が、假名遣が難しい」に擦り變つたのではないか。その結果の新字・新かなであるから、制定實施した人達が「これで日本語が易しくなつた」と胸を張つてゐたのを思ひ出す。
本當に新字・新かなで日本語が易しくなつたのなら、我々は潔く敗北を認めざるを得ないが、現代の遺傳子論や、量子論的宇宙學など、新しい概念が新字・新かなで書いてあるから「易しく」理解できるといふ譯ではない。實態は漢字を毛嫌ひして追放した跡にカタカナ語が居座つたに過ぎず、大隅良典先生のノーベル賞受賞主題が「オートファジー」だと言はれても、一般日本人にはその内容が殆ど想像できない。明治期西歐文化の諸概念を漢字熟語化して(勿論正字・正かなで)吸收した歴史を顧みるまでもなく、一部の專門家しか理解できない今日の状況は決して好ましいものではない。
「表記だけでも易しくなつたからいいではないか」との反論もあらうが、「普遍的文化の創造」といふ謂はばグローバリズム盲從の教育基本法が平成十八年の改正で、傳統の尊重が復活して民族文化の多樣性尊重へと方向轉換し、古典、文語文の學習が見直されて、折角これを正字・正かなで讀む一方で、現代文は新字・新かなのため、同時二表記といふ大きな學習負擔を強ひてゐる現状を等閑視してはならない。
學習指導要領でも古典を讀むために「適宜ルビを活用」することを獎勵してゐる。ところがルビの假名遣指定がないことを好いことに、寧ろ文語體を新字・新かなにしようとする動きが冒頭に敍べた「新かなルビ」の跳梁である。「新かなルビ」が廣まれば、次代を擔ふ兒童生徒から正字・正かなに接する機會を奪ふだけでなく、まんまと文語體の新かな化が實現してしまふであらうこと想像に難くない。このやうに危險な「新かなルビ」を「良心的な」古典覆刻出版社さへもが行つてゐる事態を深刻に受止めねばならない。
問題の根本的な解決には正字・正かなの復活が唯一有效な對策であるのは無論であるが、そのためには、正字・正かなが決して「難しい」ものではなく、誰でも學習、習得可能であることを立證して世間の理解を得ることが必要である。戰前の書物には總ルビが多く、その假名遣は正かなであつたから、讀者は知らず知らずの内に正かなに接して之を習得して行つたことを思ひ出さう。嘗て故石井勳本會副會長は「學校」と正字で書いて「がくかう」と正かなでルビを振り、これを「ガッコウ」と音讀させるのが教育であると喝破なさつた。「讀み」の重要性を明確に示すもので、要すれば江戸時代の寺子屋で行はれた、古典を讀み、暗誦させる教育法が必要且つ十分だといふことである。
然るにかうした「讀み」の重要性はなかなか學習指導要領に反映されない。現要領の小學校、中學校及び高等學校に於ける國語の改善の基本方針には、現行の「話すこと・聞くこと」、「書くこと」及び「讀むこと」からなる領域構成を維持するを繼續するといふ。嘗ての「古典からの解放」、「ゆとり教育重視」等とも竝ぶやうな不思議な方針が何の批判も受けずに續いてをり、その結果PISA調査など各種の學力檢査でも、讀解習熟度の成績低位層が増加してゐるといふ。
勿論「讀むこと」を最後に擧げたからと言つて輕視してゐる譯ではなからう。更にこのやうな分類は外國語學習には適當かもしれない。先づ挨拶を口にし、返事を聞取る事から始めメモやメールを書いてみる。最後に新聞や本が讀めるやうになれば一人前だからである。しかし學習指導要領が目指す「話す・聞く」による討論能力の向上などは、寧ろ他の科目でも十分實現可能であり、學校特に小學校で學ぶ國語には、初めて書き言葉に接するといふ意識が重要なのである。そこには學問修行を通じて人格を錬成するといふ「學校」本來の意義も込められてゐるからである。
義務教育に於ける國語科の在り方を斯樣に位置附けることで、始めて正字・正かなによる古典の素讀と暗誦の授業が可能となる。近年腦の記憶作用の重要性に注目して、年少時暗誦の習慣により多くの記憶を可能とする教育が見直される傾向にあるのも頼もしい。兒童生徒は悦んで學習し、腦の發達を促すと共に、爾後の人生の岐路に於て有終の美を全うできるといふ最高の幸せを享受するであらう。
この誰でもが容易に正字・正かなを習得できるとする主張は、平安時代の初期、入唐後歸國した最澄が即身成佛、即ち誰でも極樂淨土へ行くことができるとする大乘佛教の思想を弘めたのに對して、特別な修行を成し遂げた者でなければ成佛できないとして來た奈良小乘佛教の立場から、僧徳一が論爭を繰返し挑んだ故事を想起させる。結論を言へば後に鎌倉佛教の花を咲せたのは大乘の教へであつた。平成の御代石井先生に最澄を重ね合はせ見る思ひではないか。
以上要するに古典尊重の機運復活により生じた二表記問題を解消する切札として、正字・正かなの存在意義を主張する絶好の機會が訪れてゐる一方で、「新かなルビ」による文語體の新字・新かな統一への蠢動が顯著な現在、當協議會の活動は正念場を迎へてゐると言へよう。されば、
一、正字・正かなは誰でも學習、習得できる
二、文語文に對する「新かなルビ」は有害無益である
三、正字・正かなによる古典學習を唱道、擴張して現代文との二表記解消、延いて學習負擔の輕減に繋げて行く
の三點に理論武裝を整へ、世に問ふを以て敢て鄙計を提案するものである。
平成二十九年三月十九日(巨\申閣代表 本會理事)
市 川 浩
昭和六年生れ
平成五年 有限會社申申閣設立。
正假名遣對應日本語IME「契冲」を開發。
國語問題協議會常任理事、文語の苑幹事、契冲研究會理事。
これまでの私の主張(ホームページ掲載分)日附降順
國語改革七十年に思ふ(「國語國字」第二百五號 平成二十八年五月二十一日)
憲法改正と表記の保存(「國語國字」第二百號 平成二十五年十一月三日)
和字正濫鈔の序に見る契沖の假名遣論の本質(契沖研究會「理」第十七號
平成二十五年五月二十五日)
古典の日の制定に寄せて 「東京グラフィックス」第六百三十五號
平成二十五年一月號
−正字・正かな運動實踐のために−(二)「國語國字」第百九十七號(平成二十四年四月二十五日)
―正字・正かな運動實踐のためにー(一) 「國語國字」第百九十三號(平成二十二年四月一日)
論語臆解 「國語國字」第百九十三號(平成二十二年四月一日)
上代特殊假名遣臆見
―日本語變換ソフトからの管見―「國語國字」平成十九年二月二十三日(第百八十七號)に掲載
正字・正かなの印刷環境 ――「東京グラフィックス」平成十八年十二月號(Vol.45 No.561)に掲載
教育再生への視點
――「當用漢字」、「現代かなづかい」告示六十年に思ふ――
桶谷秀昭著「日本人の遺訓」を讀みて(文語の苑「侃侃院」)
「契冲」正字・正かな發信のために−「國語國字」第百八十五號(平成十七年十一月十一日)
忘れられる歴史的假名遣
「假名遣腕試し」に思ふ−「國語國字」第百八十四號(平成十七年十月十日)
「契冲」の獨白――字音假名遣を考へる――(「月曜評論」平成十六年四月號掲載)
パソコン歴史的假名遣で甦れ!言靈 (『致知』平成十六年三月號(通卷三四四號))
文語の苑掲載文二篇
昭和の最高傑作 愛國百人一首飜刻 たまのまひゞき
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