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真夏の怪(平成17年11月8日)
 7月下旬台風一過、急に暑さがやってきた。そんな週末のある日、母親のヘルパーより「何か今日は元気がなく、食欲もないようだ。」と連絡が入った。早速血圧計で血圧を測ってみるが平常である。しかし、体温を計ってみると、7度2分ほどの熱があった。最近あまり熱を計ったことはないが、平熱は6度あるかないかだったように思う。
 
 元気がないと言っても寝込むこともなく、普段と同様に起きて家の中を動き回っている。朝晩熱を計り、週末でもありしばらく様子を見ることにした。熱は相変わらず、7度台前半で極端に熱は出るわけでもないが、下がりもしない。そして行動は従来とそう大差はない。

 やはり気になるので、掛かり付けの病院に出掛けた。しかし、一応薬は貰ったが、胸のレントゲンも撮り、特に熱の出る原因となる異常はないとの診断結果であった。週末に血液検査の結果を聞きがてら、再診に出掛けたが、血液検査からも発熱の原因となるデータはなかった。その後、2回程、血液検査を行ったが、特に異常はなかった。
 兎に角、体温の計測だけは朝戸を開けに行く7時半頃と、夜戸締まりの確認に行く、9時頃に計測をし、またヘルパーにも依頼して、訪問時の10時頃に計測(上のグラフ参照)をお願いした。夜9時頃は若干低めで7度から6度5〜6分程度に若干下がることもあり、これで少し下がり始めるかと思うのだが、翌朝にはまた7度を超えている状態の継続であった。

 9月に入っても同様であったが、中旬を過ぎ少し涼しくなり始めた頃、夜の計測では6度5分前後に下がった日が出始めた。しかし、翌朝はやはり少し高くなり、ヘルパーの10時頃の計測では、相変わらず、7度程度を指している。

 以前より薄々思っていたことであるが、気温が高くなると、それに伴った体温調整が上手くいかないのではないかと感じていた。しかし、体温は、夜の方が高く、朝の方が低いのが一般的であるのに、母親の場合、夜の方がどちらかと言えば低く、朝の方が高いので不思議に思っていた。よく考えてみると、母は朝5時頃に目が覚め、床を離れて台所で、お湯を沸かしてお茶を飲んだり、炒り卵を作って朝食代わりのものを食べたりしている。どうも気温の高さもさることながら、体を動かすことで、体温を上げているような気がしてきた。

 10月に入ってもやはり6度台前半になることは少ないが、グラフに見るように8月よりも9月。9月よりも10月の方が低い傾向にある。これは若干ではあるが気温の影響を受けているようである。しかし、3ヶ月間以上計測して7度前後の体温が続いているが、本人は普段と変わらぬ生活をしており、医者の診断も異常が認められないことから考えると、これが起床して生活している時の母の平熱であるようだ。

 それではヘルパーからの「何か今日は元気がなく、食欲もないようだ。」との連絡は何だったのだろうか。今になって考えてみると、台風一過、急に気温が上がり、猛暑がやってきため、暑さになれておらず、暑さにグッタリしていたのが原因であったようである。

またまた骨折騒動(平成17年12月16日)
 12月5日朝7時半普段通り、母親宅の雨戸を開けるために裏口より入っていった。廊下に出て玄関方向を見るとスリッパ立てが倒れスリッパが散乱している。不審に思いながら玄関方向に向かうと玄関の上がりがまちに何か血の後らしいものが見えてきた。数歩進み、ふと玄関先を見ると1坪ほどのたたきに仰向きで母親が倒れていた。

 本人は意識があり、「寒い、寒い」を連発している。動かせる状況でないので、取り敢えず毛布を掛け、119番を回して救急車を呼んだ。再び戻るとまだ「寒い、寒い」を言い続けている。もう一枚毛布を掛けるも、冷え切ったタイルの上に寝ているのであり、どうしようもない状態である。しかし何とか暖かくする方法はないかと考えていると、電話が鳴った。

 何故「このような時に電話が・・」と受話器を取ると消防署からであった。そして「年齢やどこから出血しているのか」 などいくつか質問してきた。「どこから出血と言われてもさわれる状態でないので、分からない。そんなこと聞いているよりも、早く来て欲しい。」とつい声をあらげてしまった。その答えは「今向かっているところです。分かり易いように外に出ていて下さい。」とのことであった。

 こちらはカットなっており、救急車を出す前に何故状況などを消防署より聞いてくるのかと思ったのだが、冷静に考えてみると現場に着いた際、一刻も処置が執れるように救急車の中から電話を掛けてきたことだと分かった。大変失礼なことを言ってしまい反省している。

 間もなく救急車が到着した。担架に抱えて載せられる状況にないので、担架を2つに割り、体の両側からすくい上げるような形で担架に載せ、ようやく救急車に乗ることができた。幸いなことに妻はまだ寝ていたので、母親宅と自宅の戸締まりをして、掛かり付けのH病院(前回骨折時も入院)に向かって貰った。
 
 兎に角、どこがどうなっているのか分からなかったが、先ず左手首が骨折していることが分かった。そして事故後可成りの時間が経ってため、頭髪や、寝間着の首筋から胸元に掛けて既に固まり黒ずんだ血がべっとり付いており、出血場所の確定に可成り時間がかかった。(体を動かすのも簡単でないため)

 手首の骨折では一般に入院することもないようであるが、年寄りのため入院が必要だろうと言うことになった。まだ処置も始まったばかりだが、妻一人を置いておくことが出来ないので、一旦帰宅させて貰うことにした。

 妻はデイケアーに出掛ける日であり、帰宅後妻を起こし、朝食を摂った後、デイケアーまで車で送り届け、再び病院に出向いた。既に処置は済み、母は病室に入っていて、骨折した左手は架台でつり上げられており、頭には包帯が巻かれいたが、やっと落ち着いたのかスヤスヤと眠っていた。整形担当の先生は外来の診療中のため、1時の午前中の終了時に状況を伺いに行くことにして一旦帰宅した。

 先生との面談の結果、「左手骨折と頭部の裂傷による出血」とのことであった。「手の骨折は上手く接続できており、時間が解決してくれるもので、特に問題はない。頭部の裂傷は3センチほどで二針縫った。現在本人の意識はあるが、年寄りのため、くも膜下症のような後遺症が起きる場合があるので、こちらの方が問題であり、内科の先生と相談しながら見守っていきたい。」とのことであった。

 病室に戻ると、母は目を開けていたが、自分が何故このように病院のベットに寝ているのか、全然分からないようである。「今朝玄関で転び、玄関のたたきに血だらけで倒れていたので、救急車で病院まで来て、手当を受けた」ことを説明しても、全く記憶がないようである。

 母は朝は5時前後に目覚め、トイレに行き、その後台所へ行って、お湯を沸かしているのが、普段の行動である。常に「玄関の出窓は危ないから開けるのは止めなさい」と言っているのだが、時々玄関左手にある下駄箱越しの出窓を、手を伸ばして開けている。ここのところ寒いので、出窓を開けていないので、安心していたのだが、出窓を開けに行こうとして事故を起こしたのだと思う。発見したのが7時半頃であり、少なくとも2時間から2時間半経過したことになる。当日は最低気温が8度程あったのが、不幸中の幸いであった。その2日後くらいから寒波で最低気温は5度を切っており不測の事態まで至らなかったことにホッとしている。

 ではどのように転び、どこで頭を打ったのだろうか。本人が転んだことも覚えていないので、転んだ状況を聞くことができない。しかし、スリッパ立ての散乱状況、血痕後や発見した時の横たわっていた位置などから、どの位置で転び、どこで頭をぶつけたのか色々考えてみるのだが、推理が成り立たない。

 いずれにしても寒さにも耐え、骨折も足や腰でなく、手首で済んだこと、また事件後10日程経つが、頭部裂傷の後遺症もない様子なので、これを喜ぶべきかも知れない。

母逝く(平成18年1月3日)
 母が骨折入院して20日目になる12月24日(土)は参加している同好会で担当しているホームページの例会日であり、午後1時に病院に寄って、それから会合に出掛けることにした。ここのところ父の故郷、和歌山から送られてきたミカンを美味しく食べていたので、ミカンの袋の皮をむき容器に入れて持っていった。昼食が終わったばかりであり、「ミカンを持ってきたよ」と言ったが、食べたくないようで、一言二言話すと眠り始めたので、その場を去り、同好会の会場である近くの中学校のパソコン教室に出掛けた。

 会は4時に終わり、パソコン教室の後始末をして、4時半頃学校を後にした。当日は妻はデイケアに出掛けており、ヘルパーに妻の迎えを依頼しているので、5時頃には帰宅する予定である。普段だと真っ直ぐ帰宅する所だが、何となく病院が気になり「ミカン」も食べさせずに置いてきたので、病院に寄って帰ることにした。

 病院に行くと母は目を開けており、見舞いに来たことを喜んでいた。先程持参した「ミカン」を一粒づつ口に持っていくと「美味しい、美味しい」と言って、ミカン1個をきれいに食べた。顔を拭くため、お湯で絞った手ぬぐいを持ってくると、右手で顔を拭き「ああ、気持ち良かった」と言っていた。年内の退院は無理だろうが、来週月曜日にでも骨折の状況と退院時期に付いて医師に相談してみようと考えながら、帰宅した。

 5時過ぎに帰宅すると、既に妻たちは帰宅しており、夕食の準備を始めてくれていた。夕食もでき、ヘルパーは6時に帰った。準備された夕食を食器に盛り、妻と二人で夕食を食べ始めた。普段は食欲旺盛で、食べたくないと思ったことなど最近はなかったのだが、その時に限って、何となく胃がもたれ、食が進まず、「胃がおかしくなったのか」と考えつつダラダラ食べていた。

 その時、電話が鳴った。受話器を取ると病院からの電話である。「様態が急におかしくなった。すぐ来て欲しい。」との電話である。今会って元気なのを確認してきたばかりであり、一瞬耳を疑った。更に「どれくらいで来られるか」とのことであり、「10分程で行ける」と告げ、電話を切った。兄に電話で緊急事態を告げ、妻を一人置いていく訳にはいかないので、妻の手を取り、病院に向かった。

 病室に入ると看護婦が一生懸命人工呼吸を続けてくれてはいるが、モニター画面には2本のフラットな線がはしっているだけて、既に生活反応はなかった。間もなく院長がこられ、死亡が確認された。6時45分である。

 聞くところに寄ると、病院の食事は6時で、普段寝たきりなので食事の際、体を起こすべく車椅子に座らせて夕食を食べ始めたようである。普段入れ歯は外したがらないのだが、「入れ歯を外していいか」と聞いて、入れ歯を外し、食事を2口3口食べ始めていたが、急にガクンと倒れ込んだとのことである。ある意味では死の苦しみを殆ど味会うこともなく、一瞬の出来事であり、「大往生」と言えるかも知れない。

 死亡原因は心筋梗塞とのことである。しかし、直接原因ではないが、手首骨折が間接的原因であるだろう。「老人の骨折は怖い」とよく聞くが、やはり母は単なる手首の骨折にしても、体の自由が奪われ、ベットに寝たきりの状態になっていたことが、心身に苦痛を感じていたのだろうと思われる。

 年が明け1月18日には父の7回忌を迎えることになっていた。7回忌を待ちきれずに、父の下へ旅立つこととなってしまった。安らかにお眠り下さい。
                                           合掌
 

油断大敵(平成18年2月10日)
 1月17日の出来事である。ヘルパーが夕食を作り終え帰宅した。妻は食事が待ち切れぬため、食前の薬を飲ませて普段通り夕食を摂った。食後の散歩には少し早く、また妻もベットで横になりだしたので、玄関横の部屋で少しパソコンを始めていた。そろそろ散歩に出掛ける時間だと思いつつ、妻も横になっている様子なので、パソコンを切れの良いところまで続けていた。パソコンを終了し、部屋を出ると玄関のドアが半開きになっているのが見えた。咄嗟に玄関のたたきを見ると妻の靴がない。

 ”シマッタ!”と思ったが、時既に遅し。妻に一人で出て行かれてしまったのである。一人で出て行くのを防ぐために補助錠を付け、普段は常に施錠し、簡単に開けられないようにしていたのであるが、ヘルパーが帰宅後、急いで夕食にしたため、施錠を忘れていたのである。また最近は従来ほどいきなり靴を履くことがなく、しばらくは居間と玄関の間を行ったり来たりバタバタしているので、その足音で気が付くと油断していた。しかし、今回は音もなくまた躊躇することなく靴を履いて出ていって仕舞ったようである。

 出ていったとしても10分程度である。簡単に見つかるだろうと思った。妻はコートなど、なにも羽織ることなくセーターだけで出掛けているので、取り敢えず戸締まりだけして、後を追った。先ず行き先は、行きつけのBスーパーだと思い、スーパーでレジ嬢に尋ねると「先程来たが、すぐ出て行った」と言う。また店を出て左方向(自宅方向)に向かったとのことである。店を出て最初の交差点で、「三田さんですね」とM婦人に声を掛けられた。ご婦人は子供同士が小学校の同級生で、妻とは顔見知りであったようである。

 M婦人は「自転車で買い物に来る時、O薬局から出てくるのを見かけ、帰りに裏通りを白いセーター姿でBスーパーの方向に歩いているのを見かけたので、気にかかり自転車と買い物を家に置いてから、わざわざ探しに来てくれた。」とのことである。

 O薬局で確認をとると、一旦店に入って来たが、丁度込み合っていたので、そぐ出て行ったとのことである。M婦人は「一人では大変だから、一緒に探してあげましょう」と言って下さったのでお願いし、池上方向へ二人で道筋を変えて探して回った。散歩の際、よく立ち寄る池上のパン屋さんにも尋ねて見るも来ている様子はなかった。池上からの帰り道もルートを変えて、自宅まで戻った。簡単に見つかると思ったが、長期戦になりそうである。何も持たずに飛び出しているので、一旦家に戻り携帯電話と筆記具を持って、池上とは反対方向の小学校裏から、蒲田方面を探すことにした。また、ご婦人も自転車の方が機動力があるので、自転車をとりに行って下さった。

 学校裏ルートを廻ると蓮沼駅前に交番があるので、110番通報をお願いした。そこにM婦人も自転車で来られたので、M婦人に池上方面をもう一度廻って貰い、蒲田方面を廻ってくることにした。8時近くなると、人混みも解消されており、地下の食品街なども簡単に確認ができた。

 蒲田から戻り、もう一度小学校の裏通りを歩いていると、突然携帯電話が鳴った。受話器を取ると池上警察署からであった。そして「メガネを掛けているか」との質問があり、掛けている旨を伝えると「白いセーターを着て、全然話ができない人を保護している。間違いはないだろう。」とのことであった。20分程で車で迎えに行くことを伝えた。ヤレヤレであるが、再び池上署にお世話になることとなった。

 M婦人の自宅が小学校の表側通りに面していることを先程伺っていたので、自宅に帰る途中立ち寄り、ご主人に協力して頂いていることのお礼を言うと共に戻られたら、見つかったことを伝えて頂くようにお願いした。帰宅し、車で池上警察署に向かった。

 見つかった場所は散歩道としている池上線を越えた所のドラッグストアで何も話さず、レジ前に立っていたため、110番通報され保護されたようである。先程は池上線の手前まで探して線路を越えてまで探さなかったが、見つかった時間から逆算すると、探した時にはまだ可成り手前を歩いていたことになり、何本か歩く可能性のある路地すべてを探さなかったので、見落としたようである。帰途、M婦人宅を訪ね、お礼を述べて帰宅した。

 夕食時の忙しい時間帯にも関わらず、1時間半ほど、親身になって探し回って頂いたM婦人に、ただただ感謝する次第である。また、一寸した油断が皆様にご迷惑を掛ける結果につながることを痛切に実感した。

指の手術(ガングリオン)(平成18年5月5日)
 数年前より右手薬指第1関節の背部横に突起物ができていた。たまに無意識のうちに親指で触っていることがあったが、特に普段は痛みがある訳でなく、あまり気にせずほっていた。しかし、たまに指をひねるような動作の時、第1関節に痛みを感じることがあった。以前はその痛みはゴルフで変な打ち方のために痛むのかとも思っていたが、ここ2年ほど前から、ゴルフから遠ざかっている。また、最近では、パソコンでデータ入力の際、右手薬指、小指を使用する際にチクリと痛むことがあり、腱鞘炎かと思ったこともあった。

 昨年夏頃、その突起物を無意識の内に、親指で撫でていて急に痛みを感じた。従来より可成り突起物は大きくなっており、痛みも増していることに気がついた。掛かり付けの医者に通院の際、これは何だろうと聞いてみた所、これは整形の分野なので、整形に行くように言われた。

 しばらくそのままにしていたが、気にかかり10月に入ってH病院の整形科(3年ほど前、母親が左肩骨折の際お世話になる)を訪ねた。診断の結果、これは良性の腫瘍の一種で「ガングリオン」だとのことである。

 治療の方法としては2通りあり、1つ目は針で突いて、ゼリー状の内容物を取り去る方法で、2つ目は手術する方法である。針で突く方法ではまた再発する可能性がある。また手術でも完全に再発しないという保証はないとのことであった。先ず、針で突く方法でお願いした。

 治療は針で突き、ゼリー状の内容物を押し出すだけなので、1,2分で終わりであったが、知らぬ間に第一関節部が山形に変形していることに気がついた。手のひらを平らに置いたがテーブルとの間に空間が出来ており、そこを強烈な力で押さえ込まれたので、一瞬悲鳴を上げた。治療後は消毒をして、絆創膏を貼るだけで終わりであった。しかし、一晩は入浴禁止とのことであった。一瞬の痛さはあるが、処置は簡単に済んだ。

 しかし、翌日には既に腫れ始めてきた。1ヶ月も経つと元の状態まで腫れてきたので、11月、12月と2回同様の治療を受けた。12月の治療後は一週間ほどしてから腫れ始めたので、何回かやっていれば腫れ始めるまでの時間が徐々に伸びてくるだろうことを期待して、1月も同様の治療を受けたが、意に反して今度は腫れ方が従来と異なり、第1関節の背の方まで膨らみが生じ、少し痛さが増して来たので、2月には手術をして貰うことを決意した。

 話を伺うと外来入院で、1時間ほどで済むとのことであった。手術日は月曜日の午後と金曜日の午前に決まっており、選択が迫られた。最大の問題は指定された時間に出かけるためには妻の面倒を見る手があるかどうかにかかってくる。月曜日はデイケアに出かけているが、4時には戻ってくる。金曜日は午後はヘルパーが来るが、午前中は在宅である。いずれにしても手を探す必要がある。はたと困ったが、最近デイケアに出掛けない日の午前中は朝食を摂った後、またベットに入って寝ているケースが多くなっているので、一人残して出かけることにした。

 3月3日金曜日、朝食後妻がベットに入ったのを確認してから、9時過ぎに家を出る。9時半に手術の準備のため手術室に入る。衣服を着替え、手術台に横になる。左手には点滴が付けられ、手術する側の右手は腕だけ出せる丸く穴の開いた目隠し用のカーテン越しに手を出して待機。10時丁度に手術が開始された。先ず、薬指の根元2カ所に部分麻酔が打たれた。数分後、麻酔の効いていることを確認してから、手術が始まった。しかし、手術は進行しているのだろうが、全く痛くも痒くもなく、また指に触れている感覚もない。右手はカーテン越しに出したまま、また左手には点滴が取り付けられており自由に手を動かすことが出来ない。兎に角ベットに身動きせず横たわっていなければならず可成り辛かったが、無事1時間後に終了した。

 手術後、抜糸までは水に手をつけることが出来ない。しかし、料理は作らない訳には行かない。幸いなことに元来、左利きなので、包丁は左手で、材料を押さえる右手には野菜などを入れておく、薄手のビニール袋を被せることで何とかやっていくことが出来た。
 
 指の一寸した手術であり、抜糸が済めば簡単に元のように手が利用できるだろうと思っていたのが、大きな間違いであった。手術後、指には包帯が巻かれ、感覚的に3周り位、指が太く感じられた。これは包帯のせいだろうと、勝手に思っていた。手術の翌日及び1週間後、術後の状態を見て貰うことと包帯の交換のため、通院した。手術の経過は良好であるが、神経が麻痺してしまうので、もっと指を動かせとのことであった。

 普段それぞれの指がどのような役割をしているのか考えたここもなかったし、特に薬指の役割など考えたことがなかった。力仕事は左手で元来やっていたので、一応問題なかったが、箸とペンは小学校入学前に矯正されており、右手を利用してきた。(いずれも左手でやれなくはないが)箸やペンを持つ時、薬指の役割などあまり考えたことがなく、親指、人差し指、中指の3本で持てば良いと単純に思っていたが、指3本では箸は持ちづらいし、ペンは書きづらい。それでは薬指はどのような役割をしているのか、よく考えてみても分かりづらいのだが、箸やペンをバランスよく安定して持つためには不可欠のようである。一番困ったのはパソコンに向かってキーボードを叩く時で、特に包帯をしている状態では薬指、小指が利用できず、いつの間にか中指が代行するようになってしまった。

 10日で抜糸され、包帯も取れた。包帯が取れればすっきりするだろうと思ったのだが、間違いであった。包帯が取れても指は相変わらず、3周り位、太い感じで包帯の取れたことなど関係がなかった。よく見ると第1関節から指先までは腫れており、押してみると丁度パンパンに膨らんだ風船を押した時のような感覚である。手のひらから第1関節までも指先側ほどではないが、やはり腫れている。薬指のどの部分でも何かに触れると反射的に反応し、横へ逃げようとする。車に乗っても無意識の内にハンドルを握る指は親指、人差し指、中指の3本で、薬指と小指はハンドルから離れるように横に出していた。それでも2,3週間すれば腫れもひくだろうと思っていたが、中々腫れはひかず、1ヶ月でやっと第1関節までが正常となり、第2関節手前が初期の第1関節手前の状態になってきた。現在2ヶ月経過しているが、第2関節までが正常になっているが、まだ指先部分に若干の腫れが残っている。

 一般に手術をすれば、切開した部分の周辺は腫れるのだろうが、指という細い部分のため、指全体に腫れをもたらす結果となったのだと思う。また腫れ物の治り方は単純に考えると、周辺から患部の方向に直ってくるものと思っていたので、指先から腫れがひいてくるものと考えていたが、全く逆で指の根本から指先の方向へ直っていくのである。現在殆ど腫れはひき、指先だけが少し残っている。

 指先は最も敏感な、物に接触したことを感じるセンサー部分である。従って物に指先を触れると「触れた」とプラスの反応を示すのだが、腫れた指先で物に触ると「触れた」と感じる以前に「触られた」とマイナスの反応を示すことが分かった。即ち、丁度熱い物に手を触れた時、反射的に手を引っ込めるのと同じ反応である。

 従って、普段の生活上では問題ないが、現在、2つの困ったことが起きている。その一つはキーボードを叩く時で、意識して薬指を使って[O]を打つようにしているが、打つ度に違和感を感じている。もう一つは陶芸である。傷口が癒え、水が使えるようになれば、陶芸を始められるだろうと思っていたが、指先の感覚が戻ってこないため、ここ2ヶ月間程陶芸から遠ざかっている。陶芸は言うまでもなく、指の感覚が勝負である。その指先の感覚がプラスに働かず、マイナスに働いたのでは作業になりそうにもないので、断念してきたが、5月中には何とか、再開出来るように頑張りたいと思っている。

 今回、指に出来た小さな腫れ物であり、”治療”も”手術”も大差のないものだろうと思って手術を受けた。しかし、体験して、初めて分かったことであるが、治療方法もさることながら、”治療”と”手術”では人体に与える影響に大差のあることを痛感した。

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