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マイ ペット(平成18年6月6日)
 昭和63年春単身赴任先の名古屋より帰宅すると、2月に生まれたばかりの子犬(ビーグル犬)が飼われていた。通称は「ミッキー」である。これは末娘が高校に進学し、その入学祝いとして母親に買って貰ったものである。ビーグル犬は茶、黒、白の三色の毛並みで見た目にはかわいらしい犬であり、散歩に連れて出ても「ミッキー、ミッキー」と割合人気があった。しかし元来、猟犬であるので散歩などに出かけると、兎に角、綱を引っ張って前を歩き、そこら中を嗅ぎ周り、がさつな落ち着きのない犬である。
 
 飼い始めた当初は娘も珍しく散歩によく出かけていたが、高校、短大、社会人となるに従って、ミッキーの世話はもっぱら母親(妻)の仕事となり、犬の散歩が日課になっていた。家の周辺は道路(車道)がほぼ東西、南北に交差し、碁盤の目のようになっている。散歩は主に家を出て、半時計方向に廻って池上方向に向かい、日によって曲がる道を変え、すれ違う犬仲間と話を交わしながら廻ってきていた。気分の良い時には池上本門寺まで、足を伸ばしたり、また時には表通りだけでなく、庭先に咲いた季節の花を眺めながら、路地裏を歩いていたようである。考えてみるとミッキーが亡くなったのが平成12年1月17日(父の亡くなった前日)であるので、ほぼ丸々13年間の8,9割は妻が散歩に連れて出ていたことであり、家の周辺1km四方は路地裏も含めて知り尽くしていたようである。
 
 現在、夕食後妻を連れて散歩に出るのが日課になっているが、その散歩で廻るルートの中で、最も多く利用しているのが池上方向に向かうルートである。理由はよく分からないが、犬の散歩では家を出て右に向かい半時計方向に向かっていたが、現在の散歩では家を出て左方向に向かい時計回転と同じ方向のルートをとっている。歩く距離はおおよそ2km程で、歩くスピードによって違うが、1時間弱かかっている。時間のかかるのはゆっくり歩いているためでなく、歩くときの速さは早いのだが、一寸歩くと立ち止まり、周りを見回しては、また歩きだす。丁度、犬がコソコソと歩いてはそこらを嗅ぎ廻り、また歩き出すのと全く同じである。

 妻は1年程前位までは、たまに単語を発したり、時々童謡なども歌えていたが、現在はほぼ完全に言葉を発することが出来ない。妻は自分の考えを言葉で表現することが出来ないので、こちらが勝手に判断しているが、恐らく考えが一致しているのは50%にも満たないだろう。しかし、唯一、一致しているのは散歩に出かけることで、「散歩に出かけよう」と声を掛けると喜んで出かける。

 妻一人では生活は当然出来ない。ヘルパーやデイサービス/ケアなどを利用しても、基本は夫婦二人で生活していくのが基本である。しかし、面倒な介護人を抱えていると思ったのでは、気も重くなり滅入ってしまうことになる。そこで、現在はミッキーを飼っていた頃のことを想い出し、妻には悪いのだが、妻をペットと見立て少々できの悪いペットを飼って生活しているのだと思うようにしている。ペットを飼っているのであれば当然のことながら、3度の食事を与えなければならないし、また少々の雨が降っても、冬の寒い時でも散歩に出かけるのは、当たり前のことである。最近ではペットブームで、ペット同伴で旅行も出来るような環境になってきているようだが、我々が犬を飼っていた当時は犬を連れて行くことが出来ず、、犬の面倒を見る留守番役が必ず必要であった時代であった。従って旅行もペットがいるから、過去のように出かけられなくなったと、納得している次第である。

友は良きもの(平成18年9月22日)
 妻は父親が国鉄(現JR)に勤めていたため秋田で生まれ、その後全国を転々としていたが、高校は下関の女学院を卒業している。その女学院の友人Fさんが結婚して茅野に住んでおられ、結婚して間もない頃お子さんを連れて我が家を訪ねてこられた際、一度お会いしたことがあった。その後まだ子供たちが小さい頃は上京してきては何回か会ってようであり、また近年は電話でのやりとりがなされていたようである。

 Fさんより一昨年電話がかかってきた折り、「妻が脳障害によって電話口に出て会話をすることができる状態にない」ことをお話しした。その後,非常に心配して頂き、お見舞いなども頂戴している。
 
 妻は右前脳の障害であり、コンピュータで言えば、データファイル及びアプリケーションソフトが壊れた状態である。今まで蓄積してきた知識や経験情報を失って仕舞っていると同時に思考力及び判断力がなくなっている。しかし、幸いにも目からの画像情報は十分認識でき、人の顔や歩き慣れた道など(地図)は分かっているので、Fさんにお会いすれば分かるのではないかと思い、一昨年8月の終わりに一泊止まりで諏訪湖まで出向き、旅館までご足労願って、お会いした。

 妻は一言も話すわけでなく、また話に相づちを打つわけでもないが、お会いした瞬間笑顔が出たこと、またお持ちいただいた結婚前2人で旅行した宮島で撮った写真を見てやはり笑顔を浮かべていた。翌日、茅野のご自宅に寄らせて頂き、昼食をご馳走になって帰宅した。

 妻の元気なうちにと思い、少々厚かましいとは思いながら、Fさんにお願いして再びお会い頂くことになった。人混みは避けたいので、夏も終わりに近づいた8月26日に一泊泊まりでまた諏訪湖まで出掛けた。中央高速に出るまでは少々混んでいたが、その後は順調で途中2回休憩をしたが、4時間少々で着くことが出来た。妻は車に乗るのが好きで、道中一睡もすることなく前方を見つめて乗っていた。チェックイン後、連絡をし旅館までご足労願って、再会した。前回同様、お会いした際にニコッと笑顔を見せたのが唯一の挨拶であった。

 夕食後、貸切風呂(妻一人で風呂に行くことは危険なので)にゆっくり入り、その後、湖畔で観光客のために毎日打ち上げられる花火を見物して、のんびりと過ごすことが出来た。翌日は朝からご夫妻に霧ヶ峰、白樺湖、蓼科を案内頂いた。生憎の小雨で視界が悪かったのは残念であったが、久しぶりに高原の空気を満喫しながらドライブを楽しむことが出来た。

 昼食をご馳走になりながらの話の中で、『妻が寡黙になりだしたこと、段々電話の応対が出来なくなってきたこと、話の途中で電話を切ってしまうようになったこと、そして電話が鳴れば真っ先に受話器を取っていたのが電話を取らなくなったこと』などをお話しした。Fさんもある時、電話をした際、話の途中で電話を切られてしまい、「何か嫌われたのではないか」と思ったことがあったそうである。大変失礼をしたようである。

 下山し、南諏訪インターで別れを告げ、帰途についた。帰りは順調で途中一カ所で休憩をしたが、3時間少々で帰宅することが出来た。

 今回の無理なお願いを快くお引き受け頂き、貴重な時間を割いて頂いたFさんに深く御礼申し上げます。本人は言葉や態度に何も現せませんが、心の中では大変喜んでいると思います。本当に有り難うございました。「持つべきものは友」を強く実感しました。

小さな手助け(平成18年10月10日)
 夕食後妻を連れて散歩に出掛けるのが日課となっている。最近は季候も良いので出来るだけ妻の行きたい方向に出掛けるようにしている。半月ほど前のことであるが、その日は蒲田方向へ向かっていた。丁度中間地点位のバス通りの左側の歩道を歩いていたが、十字路にさしかかった際、普段は右折して横断歩道を渡って行くのだが、横断歩道を真っ直ぐ渡って行きたくもあり、しばらく立ち止まっていた。

 何気なく前方を見ると杖を持った男性(同年配位)が前方の歩道の角に立っていた。そして杖を持った手を挙げかけては下ろしている。どうもタクシーを止めようとしているらしいが、タクシーは2台、3台とブレーキを踏むことなく、通り過ぎて行く。もう少し早くはっきりと手を挙げていれば簡単に止まってくれるのにと思って、よく見ると持っている杖は白く、眼が不自由な人らしい。眼がよく見えないために車が数メートル先(交差点に入った頃)に来た時、始めてタクシーであることが確認でき、おもむろに手を挙げるのだが、時既に遅くタクシーは通り過ぎて行ってしまうようである。

 信号が変わり今度は左方向からやはり3台ほどタクシーが来たが同様にすべて通過していって仕舞った。これでは当分車を捕まえることが出来そうもないので、信号が変わったところで、妻の手を取って横断歩道を渡り始めると、また2台ほど車が真っ直ぐ通り過ぎていった。

 その男性に近づき「タクシーを止めたいのですか。」と確認すると「止めようとするのだが、車が近くまでこないとタクシーであることが、分からないのだ。」とのことであった。早速振り返るとタクシーが来たので、手を挙げると、ブレーキを踏んで5メートル程先に止まってくれた。その男性は礼を言うと、笑顔を浮かべて、足早にタクシーに乗りに行った。

 杖や手押し車を押して歩いている人、ゆっくり手をつないで歩いている老夫婦など街角で見かけても、従来は余り気にすることもなく通り過ぎていた。しかし、妻の介護を始め、手を取って出掛けるようになってから、注意して見るようになっていたのが幸いして、小さな手助けが出来たと思っている。

 これを書いている途中で、ふと思い出したことがある。多分15年以上昔のことだが、たまたま夕方犬の散歩に出掛け、家の路地に入る手前の路上まで帰ってきた時、前方から来たおばあさんに道を尋ねられた。確か「池上6丁目はこちらに行けばよいか。」と尋ねられたと思う。池上6丁目と言われてもピンと来なかったが、少なくとも今向かっている西の方向には「池上」なる地名の付くところはない。地名から池上駅から本門寺方面だろうと思い、「反対方向に戻って(30メートルほど先)信号を左に行けば池上駅の方向」であることを教えてあげた。首をかしげながら10メートルほど戻ると、またそこにいる人に尋ねている。この地域は東西、南北に碁盤の目のように道が出来ているので、本来分かり易いのだが、一旦東西と南北の方向を勘違いして、道を間違える人もたまにいる。

 失礼な言い方だが話具合から、若干ボケが始まっているようで、ぶらっと一人で買い物にでも出掛けて来たものの帰り道が分からなくなったようである。様子から一寸心配で、犬を連れて家に戻り、地図で池上6丁目を探してみた。余談になるが、ビックリしたことに池上駅方向に向かった隣町は「徳持町」とばかり思っていたのだが、町名変更で池上6丁目となっていた。(今でも徳持小学校や徳持会館などがあり、古い住人にとっては徳持の方がなじみがある)

 先程、おばあさんが「病院が2つあり、そこまで行けば分かる」とも言っていた。徳持地区であれば病院が2つあることから、大体の位置は特定できた。先程の様子から何となく気になり、地図を持っておばあさんの後を追ってみた。信号を左に曲がり池上駅方向に向かったようだが、50メートル程進んだ次の十字路をまた左折(西向き)して50メートルほどの所でうろうろしているのが見つかった。

 早速追いかけ方向が違っていることを告げ、手に持っていたビニール袋を持ってあげ、折り返した。何の買い物をしたのか知らないが、可成り重たいものであった記憶がある。自分の考える方向とは違うので不安げであるが、一緒に十字路迄戻り左折して信号を3つ超え、300メートルほど歩いたところで、右手前方に病院を見つけ「分かった。ここだ。」とやっと顔がほころんだ。病院手前の路地を50〜60メートル入った所の左手の家であった。家に入るように言われたが、門前で失礼した。分かれる際、「あなたは佛さんみたいな人だ。」と言われたのを思い出した。あの時のおばあさんは今も健在なのだろうか。

 妻も3年前の事件以来、何度か人の善意によって助けて貰っている。街中には健全な人に混じって、色々な障害を持った弱者の人達も多数いるので、これからも困っていそうな人を見つけたら、積極的に手を差し伸べて行こうと思っている。

ボケの始まり?(平成18年12月26日)
 12月16日土曜日6時過ぎ、電話のベルが鳴った。受話器を取ると電話の向こうから「Nです。」との声。声だけでは相手が咄嗟に分からず何人かのNさんを思い浮かべて「Nさん?」と話すと「今日集まるんだったんだよ。」との声。『ア!シマッタ!今日K高校時代のグループで昼食会をすることになっていたのだった。』

 戦時中、母親の故郷である和歌山に疎開していた。小学(当時は国民学校)5年生の時に終戦を迎え、中学から高校進学まで住んでいた。しかし、昭和25年に父が転勤先の名古屋より東京に戻ることになったため、家族全員東京に戻ることになった。県立K高校に入学した年の夏休みに東京に転校したので、僅か半年の在籍で、勿論卒業はしていない。

 このグループは20年程前に発足し、K高校の同窓生で東京に住んだことのある約20名ほどのグループである。現在も東京周辺及び大阪周辺に住んでいるそれぞれ10名ほどのメンバーの集まりで、年1回春に1泊止まりの旅行を行っている。また、暮れには東京グループのみで食事会を行っている。

 本来、卒業もしていないので、メンバーの資格がないのだが、そのメンバーの中に中学時代の同級生3名がおり、その1人から声がかかりメンバーに加えて貰っている。過去は比較的参加率もよく参加してしてきたが、ここ数年妻の介護のため会合には参加できていなかった。昨年は東京組の集まりが11月に「浜離宮の散策」で行われた。幸いなことに土曜日の昼食を挟んだ集まりであった。丁度、妻がデイケアに出掛けている時間帯だったので、参加させて貰い、久しぶりに歓談することができた。

 今年の東京組の集まりの日も土曜日で、場所も品川駅に隣接するビル内のグリルでの昼食会であった。参加しやすい場所を設定してくれていた。早速幹事に参加を連絡し、当日を楽しみにしていた。最近、よく物事を忘れることが多くなってきているので、忘れないようにしなければと思っていた。少なくともその週の初め頃までは『今週末の土曜日はK高校の集まりがあるので、忘れないようにしよう』と思っていた。当日は妻のデイサービスの日であるので迎えがある。『車で迎えに行くので、酒は飲まないようにしよう。いや待てよ。多分、呑んでしまうだろう。場所が大森警察署の近くなので、品川から京浜急行で直接行き、タクシーで帰ろう。』などと考えていた。

 それが何故忘れてしまったのか。毎月第2木曜日はあるパソコン仲間の「ホームページの会」の例会日である。場所は中野で、メンバーの一人のオフィスを借用していたが、そのオフィスを12月で閉じることになり、また別のメンバーが関係しているNPO団体の浜松町にあるオフィスに当日急遽移転することなっていた。そのため、例会は普段2時からだが、当日は1時に集合し、必要なデータと機材を整理し、浜松町まで運び、環境を整備しようと言うことになっていた。
 
 当日の予定は先ず、朝9時に妻をデイサービスに送り出す。数日前にある理事会の会計担当者から銀行の貸金庫を開けるのに立会を依頼されていたので、10時に銀行に行く。そして午後は例会に出席することであった。

 この予定では余り余裕はないが、特に時間的に問題はなかった。しかし、妻を送り出し、さてそろそろ銀行に出掛けようと準備をしていた時に、とんでもない忘れ物に気がついた。「ホームページの会」当日は妻は送迎車で送られてくるが、会からの帰宅時間が若干遅くなるので、ヘルパーに迎えて貰うことにしている。そのために、家の鍵をバッグに入れて持たせるべき所、これをすっかり忘れていたことに気がついた。これでは帰宅しても家には入れず立ち往生してしまう。

 さてどうするか。銀行行きの時間を変更して貰うことも考えたが、銀行へ車で行き、その後デイサービスまで直行することにした。銀行は30分ほどで済み、デイサービスまでは順調にいけば40分程で往復できるが、途中、京浜急行の踏切次第。つい先日ダイアが乱れ30分近く、立ち往生したしたこともある。比較的順調で無事鍵を届けて11時20分頃に帰宅できた。

 車を置くと、その足で中野に向かう。途中昼食を摂って、1時2分に目的地に到着。早速、データファイルを取り出し、周辺機器や必要な資料を持って、浜松町へ移動。新しく借用できるパソコンにデータファイルの移行並びにホームページビルダーのインストールとFTPの設定を行った。一応役割分担部分を終了して、4時過ぎ一足先に帰途についた。5時帰宅、妻はヘルパーが無事迎え入れてくれていた。

 「鍵の入れ忘れ」と言った一寸したことが、非常に目まぐるしいドタバタ騒ぎの1日となってしまった。他人からするとばかばかしいことであるが、本人からすると「もし、鍵の入れ忘れに気づかなかったら、妻とヘルパーは家には入れず、大騒ぎになっていたはずである」また引っ越し作業も少々もたついたところもあったが、いずれも無事終了したことで、一安心。これが、どうもその後の週末までの予定など全て、記憶から消え去ってしまった原因のようである。

 最近、短期記憶は可成り悪くなっていることを痛感している。例えば、食材を買いにスーパーへ出掛けるのが日課となっている。今日はあれこれ4,5品を買ってこようと出掛けるのだが、帰宅後、「シマッタ!あれを買ってくるのを忘れた。」などと言うことが、しばしば起きている。

 予定なども「鍵」のように忘れていても、際どいところで大体思い出し、今回のように完全に忘れてしまったことは初めてである。自分で言うのも可笑しいが、約束事には正確で、比較的「信頼」されていたのであるが、今回の事件で、面目丸つぶれとなってしまった。

 今回の物忘れの原因を考えてみると、やはり生活パターンから来るところが大きい。当然のことながらカレンダーは月毎に曜日と日付が書かれている。そしてスケジュールも一般的には日にちが優先し、埋められていくものである。

 しかし、私の現在のスケジュール表は若干趣を異にしている。以前にも記憶について書いたことがあるが、現在の生活の基本は妻の介護を中心としたもので、スケジュール表を書くと週単位のデイサービスやヘルパー派遣の日及び各種ゴミ出しの日で一週間の各曜日が先ず埋まり、また基本的に2週間及び4週間間隔で通っている通院日で埋まる。その上に月4回ほどのクラブ活動日(これも第何週の何曜日と決まっている)を載せることで月のスケジュール表は基本的に完成する。即ち、日付のない曜日だけのカレンダーでスケジュール表ができでしまうのである。

 このスケジュール表の上に今回のように、たまに日付を意識した予定を入れるのだが、指定日付の曜日に予定を入れるが、頭の中で予定表を思い浮かべると、従来は当然のごとく、日付と曜日の入ったスケジュール表が思い浮かんだのだが、現在は日付の抜けた曜日だけのスケジュール表となってしまっている。

 主なスケジュールは毎日眺めているカレンダーに書き込んであるのでこれを毎朝確認すれば良いのでが、昔から手帳にスケジュールを書き込むが、殆ど頭の中のスケジュール表で問題なくやってきたので、カレンダーを覗く習慣がなくつい忘れている。今後このような失敗を無くすためには、『毎朝スケジュールを書き込んだカレンダーをチェックすることを習慣付けることが必須』と自分に言い聞かせている。また日付の入ったスケジュール表を思い浮かべるべく、頭のトレーニングをする必要がありそうだ。

糖尿病の現状(H19.1.24)
 妻が糖尿病と診断されたのが、平成16年10月のことである。血糖値からすると一般的には入院加療が常識であるが、妻一人で入院させることが出来ぬため、無理にお願いして通院加療の方法をとらせて貰った。しかし、食事療法を徹底することとなった。後に徐々に分かってきたことであるが、入院させる目的は、それまでの本人の不摂生な食事の摂り方を改めさせ、糖尿病に必要な栄養のバランスとカロリー制限を徹底し、食事療法を身につけさせるのが狙いのようである。

 妻が健全で自分で食事を作って食べているのであれば、食事制限は非常に難しかったであろうが、幸か不幸か食事はこちらが作って与えれば良いので、こちらのコントロール次第である。しかし、妻の場合、一日の摂取カロリー数が1200kcalと制限されたため、一食400kcalでは殆ど食べるものがない。
 
 先ず食事以外のカロリー補給を断ち切る必要があり、間食を一切無くすことであった。妻に与えず、自分だけ隠れて食べるわけにはいかないので、ケーキや生菓子は勿論、一寸したスナック菓子も基本的に買わないことにした。また飲み物もジュースを好んで飲んでいたが、飲み物もお茶一本に切り替えた。散歩に出掛けた際、水分補給のため、缶コーヒーを好んで飲んでいたが、これもお茶に切り替えることにした。

 食事は更に大変である。毎日食べるための食事を作るのがやっと出来るようになってきた所だが、更に栄養バランス及びカロリーを考慮して作らなければならなくなった。病院の栄養士より指導を受け、食事療法を開始することとなった。妻は秋から冬にかけて脂ののったブリやサバをよく食べていたが、これらはカロリーが高すぎて食べさせられない。兎に角、タンパク質、炭水化物、脂肪のバランスを取り、且つ一食のカロリーを400kcalに押さえること及び塩分や砂糖など調味料の調整が必要であり、当初は食事を作る苦労と量の制限の苦労があった。
 治療も当初、血糖値を下げる薬の量も可成り多めであったが、4ヶ月ほどで血糖値及びヘモグロビン値も平常値に入り始めたので、薬の量も徐々に調整に入り、現在血糖値を下げる薬も飲んではいるが、一番軽い薬の量となっている。またここ半年ほどの検査結果も安定した数値となってきた。11月の検査でインシュリンの量の検査も併せて行って貰えたが、十分ではないが、それなりに出ていることも判明した。

 現在、食事の量は当初のように厳密ではなく若干多めであるが、間食は基本的に与えないことにしている。体重は若い頃に比べて可成り増えていたので、食事制限で当然痩せて来るだろうと思っていたが、中々痩せなかった。しかし、昨年夏頃より少しずつ痩せ始め、現在2kg程減量し、体調も良いようである。現状の食事療法を続けていけば、糖尿病による合併症の心配もないようであり、一安心している。

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