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油 断 大 敵
平成27年9月12日
 昨年11月に6度目の胃瘻交換を実施した、それまでは喉と言うよりも鼻を詰まらせるため、鼻からの吸引を必要としていたが、鼻を詰まらせることがなくなり、喉周辺に貯まった唾で咳き込むことが多くなり、口からの吸引で済むようになってきた。

 毎年問題視してきた冬場も大過なく過ぎ、連休明けの5月に第7回目の胃瘻交換を実施した。その後も順調に夏場を迎えた。24年1月に肺炎を起こし、寝たきりとなって以降、身体の硬直化はどうしようもないが、内蔵系の体調は一番安定しているようであり、また月6回程のデーサービスへ出掛けることも、毎日寝たきりの状態よりも気分転換となっているようで、眼の動きも従来より、活発になってきていた。

 7月初めに病院へ状況報告に行った際、体調について聞かれ、「ここのところ元気にしています。」と報告したところ、「頑張っていますね。」と褒められてきた。

 しかし、7月18日(土)、5時過ぎに訪問入浴があり、通常通り入浴の準備のため衣服を脱ぎ始めている際、急に少量ではあるが嘔吐が始まった。昼投与した栄養剤らしき物を吐いていた。入浴の中断も考えたが、むしろ入浴してさっぱりした方がよいと考え、何時も通りに入浴をして貰った。入浴後、夜の栄養剤投与の時間なので、準備し投与し始めようとした時、再び嘔吐があった、これでは栄養剤投与は無理なので中断した。その後1時間程して、様子を見に行った際、そんなに大量ではないが、三度目の嘔吐があった。最初は口外にはき出したが、グッと口を閉ざしてしまい、一部口内に留まってしまったようであった。10分程して様子を見に行くと、頭が左側に傾き枕から外れ、グッタリとした状態で、息をしてないように見えたので、頭を揺すってみたが動かない。これは一大事と「119」番に電話をし、救急車を要請した。

 救急車が到着し、昭和大へ行って貰うことを依頼した。少し混んでいるので,待ち時間が生じるが受け付けて貰った。8時過ぎに到着。少し待ったが診察開始。最終結果が出たのが、11時半過ぎ。血液検査の結果を見ても,若干異常値はあるが、熱もなく肺炎の心配はないので、帰宅して貰うとのこと。また発熱などがあって心配の時は、改めて来るようにとのことであった。また平常通り栄養剤投与しても問題ないとのことであった。そこで介護タクシーを呼び、12時過ぎに病院をでて12時半に帰宅した。

 翌19日(日)朝は可なり元気を取り戻していたので、平常通りに栄養剤を投与した。午後3時半頃計温すると8度3分程あったので、氷枕と脇の部分も氷で冷やしたところ7度8分程に下がった。夕方又計温した所また8度4分に上がっていたため、残っていた解熱剤を飲ませたが、8度2分程にしか下がらなかった。

 20日(月)の朝は7度7分に下がっていたので、一安心していたが、8時45分にリハビリが来て、体温を測ると8度3分に上がっていた氷枕をした所、7度8分まで下がったので何時もより軽めにマッサージをして貰った。午後3時過ぎに体温を測ったところまた8度5分あり、頭を氷枕で冷やすが、下がる気配がない。

 本来なら掛かりつけの医者に往診をお願いするところだが、連休のため依頼することが出来ない。5時頃になっても熱が下がらないので、もう少し様子を見ようかとも思ったが、前回のように夜遅くなってからの救急は大変なので、再度119に電話をし、救急車を呼んだ。

 今回は前回と違って酸素の吸入量が少ないため少量ではあるが、酸素マスクを当てて、救急車に乗り込むことになった。救急病院は前回同様昭和大病院で対応して貰えた。

 病院へ到着後早速救急治療を受けたが、肺炎であることが判明したため、救急病棟に入院することになった。当日は救急病棟であるが、明日は一般病棟に移動することを確認して、帰宅した。翌朝、10時過ぎに病院に到着、点滴やら色々な機材が身体には取り付けられているが、一応安定している様子であった。12時近くになり、救急病棟より一般病棟に移動することになった。移動先の病室は普段胃瘻交換のため入院している、神経内科のある東病院のため、病棟間の連絡救急車で移動し、落ち着いた。

 23日午後見舞いに行くと、鼻には酸素吸入用のパイプの上を覆うようにマスクが掛けられていた。そして息苦しそうに大声を断続的に上げていた。時々大きなアクビをすると、マスクは鼻からズレ落ち、マスクの上部が鼻の下にかかり、鬱陶しい状態となる。マスクを鼻の上に来るように直してやるが、また同じ動作を繰り返していた。看護師に吸引して貰うことで、大声を出すことは少し修まったが、まだ息苦しさは残っているようであった。

 24日に酸素吸入はとれた。可なり落ち着いて来たようであるが、点滴は継続したままである。28日主治医より、「昨日で点滴を終了した。もう何時でも退院は可能です。」とのことであった。介護タクシーの手配も含めて、区切りのよい31日に決定し、無事退院した。

 振り返ってみると体調について十分注意してきた積もりであり、体調はどちらかと言うと、良いと思っていた。そのような時に突然発生した嘔吐が原因で誤嚥肺炎を起こしている。今回は異常の発見が早く、大事には至らなかったのが、不幸中の幸いであった。     肺炎も思ったより軽く軽く済んだことは幸いであった。

 退院後、1ヶ月半程になるが、デーサービスに出掛けることも出来、ほぼ入院前の状態に戻ることが出来ている。しかし、唾の飲み込みが徐々に悪くなってきているので、口腔ケアには注意を払い、誤嚥の原因を少なくすることを心がけていきたい。

慌ただしかった年末年始
平成28年1月31日
 12月初めに喉の調子がおかしくなった。妻にうつしたくないので、12月5日に早速医院に出掛け、抗生物質を出して貰い、1週間程で直った。しかし妻にうつしてしまったらしく、少々熱も出て、喉の調子がおかしくなり出した。9日(水)に病院に電話をするが、たまたま病院は休日であったが、連絡が取れ状況を説明し、薬の処方箋を出して貰うことが出来た。妻は私より重傷で痰が可なり出るようになり、しばらくやっていなかった、鼻からの吸引も必要になった。

 10日間程で風邪は治まり23日にはデーサービスに出掛けることが出来た。デーサービスから帰宅後、夕食の栄養剤投与のため、食前の薬をシリンジで投入後、栄養剤の投入を開始したが、栄養剤は全く流れてくれない。11月に胃瘻交換したばかりで、疑問に思ったが、流れてくれないのも事実である。
2年ほど前、胃瘻交換予定の2週間ほど前に、今回と同様に栄養剤が通らなくなり減圧用チューブを使用したり、シリンジを使って水分を少し強く押し込むことで、一時的に栄養剤を通した経験があるので、同様の方法で試すが、栄養剤は投与出来なかった。

 翌日朝の栄養剤の投与を始めるが、前日同様シリンジでの水の投与は出来るが、栄養剤は全く通らない。訪問看護士に支援を依頼し、減圧チューブを使って同様に調整を行うが、水は通るが栄養剤に切り替えると通らない。やむなく胃瘻交換を行った昭和大学病院に電話をし、状況を説明した結果、入院覚悟で通院することとなった。

 早速介護タクシーに連絡したところ、近くの病院に出掛けている車があり、搬送後直ぐ廻ってきて貰えることとなり、比較的短時間で通院することが出来た。昨夜来、何も胃に入っていないので、通院前に少しでも補給すべく、シリンジを使って押し込むことで何とか、100ccの栄養剤を投入することは出来た。

 1時頃病院の外来へ出向くと早速診察室に誘導され、看て貰うことが出来た。先ず水をシリンジで注入すると注入できたので、容器に水を入れ投入を開始すると、ほぼ正常のように水は流れ始めた。まだ状況確認のための作業を開始したばかりで、何も特別なことをしていない段階での出来事である。また胃瘻交換時期に来ているのであれば、機器の寿命であると考えられるのだが、先月交換したばかりであり、医師も検査の方法について疑問を持ち始めてきた。一方、水は通るようになったが、粘性のある栄養剤は果たしてスムースに通るのか?。残念なことに栄養剤を持参していなかったので、試すことが出来なかった。

 家で栄養剤が通らなくなったのも事実であり、また現在少なくとも水は順調に通るようになっていることも事実である。結果として、一晩入院して様子を見て帰宅したらどうかと言うことになった。

 急遽入院手続を取り、入院することになった。そして夜の栄養剤投与状況を見ていると、普段通り順調に栄養剤が流れていることが分かった。そこで翌日帰るための介護タクシーの手配を行った。

 翌25日帰宅時間は午後3時にしてあるが、朝の栄養剤投与の状況を聞くために、10時頃出掛けた。当然「朝も順調に栄養剤が投与出来た。」と聞けるものと思っていたのだが、「看護士から栄養剤が上手く通らない。」と言う報告を受けたと医師からの説明であった。

 『通らなくなった。』と病院に駆けつけた原因が分かって貰えたことは良かったが、午後には帰宅する予定が急遽変更となり、複雑な心境であった。帰宅できなくなったので、早速介護タクシーをキャンセルした。

 栄養剤は鼻からパイプを通しての投与となり、早速交換するための胃瘻の手配をして貰うこととなった。26日(土)に交換用の胃瘻機材は入手でき、年末最終日の28日(月)に胃瘻状態をチェックし、交換できるか判断することとになった。結果的には胃瘻の通らなくなった原因が機材の問題か、人体側の問題であるか判断できず、交換して正月休み中に問題が発生すると大事に至るので、年明けに交換することとなった。従って栄養剤は鼻から投与する必要があり、自宅ではできないため、病院で越年することとなった。

 29日(火)は唾液によるものか、痰によるものか分からないが、従来よりも息が苦しそうであった。30日(水)に病院に行くとベとットの周りのカーテンが閉められ中でうめき声はするが、何か作業中だと思いしばらく待っていたが、余り終わる様子がないので、覗いてみると誰もいなかった。様態について聞くと昨夜9度5分の熱が出て、誤嚥による肺炎を起こしていたことが分かった。入院した時には病室内で、一番元気であったのが、日に日に悪くなり、一番の重病人になってしまったようである。しかし、入院していたお陰で、年の瀬が押し迫ってドタバタせずに済んだと、善意に解釈した方が良いだろう。

 本人にとっては痰に可なり苦しめられ、さんざんの正月であったことだが、大事には至らず、3が日の間に徐々に快方に向かった。年末に一応6日(水)に胃瘻交換を予定し、同意書も出していたが、果たして実施できるか心配であったが、4日の診断の結果、肺炎も落ち着いてきており、胃瘻交換可能との結論を得た。

 6日(水)昼前に病院に出掛けると、既に胃瘻交換は終わっており、鼻に付いていたチューブも取れ,スッキリした顔をしていた。しかし、肺炎中薬は鼻から投与されていたが、栄養は点滴で行われていたため、一気に胃瘻からの栄養剤投与に切り替えることが出来ず、点滴と胃瘻の併用でスタートした。8日(金)には全量胃瘻に切り替えることが出来、連休中様子を見て連休明けの12日(火)に退院できることになった。

 12日3時に退院し、無事帰宅した。今回肺炎を起こしたことで、体力の低下を心配したが、その後は胃瘻も順調に動作しており、またデーサービスへも従来通り出掛けられるまでに体力が復帰できて安心している。

 しかし、振り返って見ると発端は胃瘻が栄養剤を通さなくなった事であり、簡単に解決するものと思っていたが、その後事態が二転三点し、慌ただしい年末年始を過ごすこととなった。


活躍する吸引器
平成28年3月20日
 妻は平成24年1月末に誤嚥による肺炎を患い約2ヶ月間入院をした。その間に体調は一変してしまった。入院前はヨチヨチ歩きではあるが、手を携えてやれば歩くことが出来、前年暮れには20段の階段を上って美容院に出掛けてきている。また食事は食べさせてやれば、普通に食べられていた。しかし、入院後、食事に関しては医師の薦めもあり胃瘻処置をすることとなり、また寝たきりのため体力は衰えると共に認知症が進み、手は硬直化してしまい、足は腰及び膝は一応曲げることは出来るが、筋力の衰えによって、自立するだけの脚力が無くなると同時に足首が一部塊り始めてしまった。体力的なものに加えて、入院前には全く不要であったが、痰などによる呼吸気系への障害を防ぐための吸引が行われるようになっていた。

 以上のように入院前後では「起き上がることが出来る生活」から「寝たきりの生活」に一変したために、介護そのものの内容も一変してしまった。先ず、病院は通院していたものが訪問医療(往診)となり、介護支援もデーサービスが中心であったものが、リハビリ、訪問看護、訪問入浴などに大きく変化し、また生活環境として車椅子に加えて、ベットや屋外に出るために車椅子用のスロープをレンタルすることになった。また入院状況から見て、吸引器(図参照)が必需品であることが分かってきたので、レンタルも可能であるが、購入することにした。

 入院中は看護士の行っている看護の様子を見ているだけであるが、帰宅後は一部ヘルパーなどの支援を仰ぐが、殆ど全ての作業は一人で行わねばならない。衣服の交換などは見よう見まねで覚えることが出来たが、胃瘻や吸引処理は衛生面も含めて、介護が必要であり、退院前に具体的に指導を受けた。

 胃瘻に関しては先ず胃瘻器具の着脱及び栄養剤投与前後に水分補給のためシリンジで水分を投与するが、薬がある場合にはお湯で薬を溶かし、投与することになる。また400ccの栄養剤を約1時間かけて投与するための点滴のスピードの調整方法を学んだ。

 一方吸引器については先ず吸引力の調整方法及び取り付けたカテーテルの取り扱いについて学んだ。カテーテルは鼻や口などから体内に入れるので、清潔さを保つ必要があり、使用前に、水溶液を吸引して先端部分を清潔にする。また使用後は先端部分をアルコールで拭きとった後水溶液を吸引して、カテーテル内を洗い流す。

 吸引するためには具体的に鼻よりカテーテルを挿入す必要がある。入院中度々吸引処置を見ており、違和感を持っていたが、指示に従い体験して見ると、思っていたよりも簡単にカテーテルを挿入できることが分かった。

 退院後は痰を絡ませることが、多く発生した。毎週火曜日は訪問看護の日であり、必ず吸引を行って貰っているが、その他の日は痰が絡んだ際には支援者がいないので、私自身が必要に応じて処置をすることになった。痰の処置は喉までカテーテルを挿入する必要があるので、最初は少々手間取ったが、比較的簡単に出来るようになった。

 退院後2年半ほどは喉に痰が貯まるケースが多く、鼻から注入して、喉までカテーテルを挿入して、吸引することが多かったが、その後は喉よりも鼻を出すことが多くなり、鼻から挿入するが、喉の手前ぐらいまでで良くなったきた。昨年夏頃からは鼻も落ち着いて来たが、喉に唾を溜め込み呼吸がし難くなり、声を発することが多くなっている。そのため口からであるが、吸引することが多くなっている。特に最近では睡眠中に喉に唾が貯まりだし、呼吸に異常を感じて声を発するケースが多くなり、日によっては2,3時間間隔で夜中に声を発するので起きて吸引してやるケースが増えてきている。

 いずれにしても誤嚥による肺炎以降4年を経過したが、殆ど絶え間なく吸引器にお世話になっている。吸引器は4万円ほどで購入しており、当初は高い買い物をしたように思っていたが、その稼働率は非常に高く、介護上必要不可欠の介護器具として大いに活躍してくれている。


【独り言】:著書「娘になった妻,のぶ代へ」を読んで
平成28年5月30日
 著書「娘になった妻、のぶ代へ」(佐川啓介著)は「ドラえもん」役を四半世紀に亘って演じてきた大山のぶ代を妻に持つ著者佐川啓介が妻”大山のぶ代”が認知症に罹ったことを公表し、介護経緯を妻(のぶ代)に語りかけるように書かれている。
 
 著者は妻が「ドラえもん」のことを忘れ、また夫である自分のことも分からなくなっている現実を認めたくなかったこともあろうが、『ドラえもん』=『大山のぶ代』のイメージで国民的人気になっている現在、認知症に罹っていることを公表することでその反響の大きさを案じていたようである。

 認知症と診断されたのが2012年秋で本の発行が2015年10月であり、3年間「認知症であることを認めたくなかったこともあるが、一方認知症であることを知られたくなかったようである。有名人であるが故に認知症であることが知れ渡った時のダメージが大きいと考えていたのだろうが、マムシ(毒蝮三太夫)の勧めによってラジオの生放送で公表したことは良かったと思う。即ち、黙っていたことの後ろめたさから解放され、またファンから同情はされても、後ろ指を指されることがなかったことが分かったことだと思う。

本書の内容を私なりにまとめてみると次のようになる。(著者は妻大山のぶ代のことを「ペコ」と呼んでいたので、以下「ペコ」と記す。)

【病 歴】
≪ペコの病歴≫ 
2001年4月  人間ドッグで直腸がんを発見して手術をした。
2008年4月 前頭葉の脳梗塞で入院。比較的軽度のため、身体には麻痺は残らなかったが、前頭葉のため、しばらく記憶の一部がはっきりしなくなったようだ。 
2012年秋  脳の精密検査の結果、「アルツハイマー型認知症」と診断された。

≪著者の病歴≫
2013年 胃がんの摘出手術で2週間程入院した。
2015年7月頃 逆流性食道炎で1週間入院した。
その他 入院までに至っていないが、肺気腫や帯状疱疹に罹ったことがある。
【現在までの症状】
≪精密検査以前≫
愛煙家であったにも拘わらず、「灰皿」が何に使うものか、分からなくなった。
料理中にガスのつけ忘れで、鍋が焦げているのに、眼の前の野菜を一心不乱に切っていた。
残った料理を一つの容器に詰め込んだり、その容器を冷蔵庫に仕舞わず、書類の引出にしまった。
電気を家中つけっぱなしにする。
冷蔵庫を開けっ放しにする。など。

≪精密検査以降≫
薬の飲み忘れ、飲み間違え。
指宿温泉の砂風呂に入っている際、子供連れの家族が写真を撮っているのを見て、急に怒鳴り声を発生して大騒ぎになる。
風呂を嫌うようになる。
大便を家中でたれ流すようになる。
夜中に起きて納戸に入り込み、大きな声を発し、一人でしゃべり続ける。
など。

【介護について】
 介護という面では脳梗塞で倒れた時点から行っている。介護の中心は著者本人であるが、認知症の症状が顕著になってきたここ2,3年はマネージャーのK氏及び長期に入っている家政婦N氏の手を借りている。

 今後の介護の詳細は分からないが、介護保険のサービスは受けてないし、受けるつもりもない。介護施設に入れる気もない。娘になったつもりで、K氏とN氏の支援を得ながら介護を続ける積もり。

【公表について】
 著者(夫)は『ドラえもん』=『大山のぶ代』として、国民的人気になっている、そのイメージを損ねてはいけないと常々思っている。即ち、ドラえもんは永久に不滅であり、その役を演ずる大山のぶ代も永久不滅の存在でなければならないと思い続けている。従って仕事関係者以外には一切口外してこなかった。

 しかし、介護に関して、知人でもあり、認知症の番組を持っているマムシに相談したところ、色々介護に関する参考になる話を聞くことが出来た。その際、「公表した方が良い。」と薦められたが、「大山のぶ代のイメージを崩すのではないかと直には同意できなかったようであるが、
『一人で抱え込んでいたら、お前の方が参っちゃうって・・・・。啓介が先に逝っちゃったら、ペコはどうなるんだよ。』と言われて決断したようである。

 そして、2015年5月13日にラジオに生放送で公表した。その反響が大きかったこと、また公表によるマイナスイメージが払拭されことで本人もスッキリしたようである。

【感 想】
 先ずは認知症に罹ったことに同情申し上げると共に、介護の大変さお察しいたします。有名人が故にイメージダウンを恐れて病状を隠し続けてきたが、マムシさんの助言により公表したことで、世間は同情を持って受け入れて呉れたことが分かり、肩の荷が取れて非常に良かったことだと思います。

 しかし、これが小説であればハッピーエンドで終わり、その後は読者それぞれが勝手に想像すれば良いことです。しかし、これは実話であって、著者にとっては認知症介護という長旅の1合目をスタートしたばかりの話です。今後のことについても触れていますが、「未来については自分にも分からないが、長生きして、余り見知らぬ人の介護の手を借りずに、マネージャーK氏と家政婦N氏の協力を得て、介護を続けて行こうと思っている。」と述べています。

 15年間認知症の在宅介護をして来ている読者の一人として疑問を感じています。私は本腰を入れて在宅介護をするに当たって、下記の「介護の心得」を持って取り組みました。

【介護の心得】
私自身介護を継続的に実施するために次の4点を決めた
@ 介護をしているのだと力まないこと。
子育ての時、只今「子育て中」と看板を掲げて、生活はしていない。子供のいる家族として生活を送っている。大きな子供抱えた家族生活をしてる位に考え、介護が普段の生活の一部にならないと、ストレスが溜まり、長続きはしなくなる。

A 現在残っている良い機能を探し出すこと。
失われていく機能を正常の時と比較することは落胆が増すだけで惨めになる。逆にまだ正常な機能を探し出し、その機能を活用することで、喜びを感じることが出来る。

B 最小限の行動範囲を維持すること。
介護が始まれば行動範囲を縮めざるを得ない。介護を理由に自分のしたいことを断念したり、誘いを断り続けていると、気がついた時には孤立して別世界に入ってしまう。これを避けるために、必要最小限の行動範囲を決めておき、それを守ることにした。

C 自身の健康を維持すること。
健康維持のために心がけていることを列挙すると次の通りである。
@毎年健康診断は全て受けている。
A妻は現在2週間おきに往診を受けているが、その際、半強制的に受診している。
B三度の食事は正しくとり、暴飲、暴食をしない。
C生活のリズムを崩さない。

血圧の薬は若い頃から飲んでいるが現在は若い頃よりも安定して、略正常値をキープできている。15年間2,3度風邪を引いたことはあるが、寝込んだことはない。


 介護は先の見えない長期戦です。そして介護度が上がる毎に介護の質が変わってきます。特に体力が必要になってきます。二人の絆の強さはよく分かりますが、「気力」と「気心知れた人による介護」だけでは介護は出来ません。特に著者は持病もあり、ストレスによる病気にも罹っているようです。介護を継続するために先ず第一に為ねばならないことはご自身の健康管理だと思います。そのためには先ず第1にペコの過去の栄光を忘れ、現状を認識することだと思います。第2に専門の介護支援者を受け入れ、介護作業の負担を軽減することだと思います。

 認知症は他の一般の病気と同じ病気の一種です。しかし、一般の病気は発病すると通院または入院して、1、2週間医者の処置を受けて完治するものですが、認知症は一旦診断されると1,2ヶ月単位で通院しますが治療目的でなく、薬の処方箋をだして貰うのが目的です。認知症患者にとって重要なことは日常生活を維持するために、介護保険による介護を受けることです。そしてこの介護は継続的に必要であり、認知度が進んでくると介護の内容は変化し、それを相談するのは医者ではなく、ケアマネージャーであり、ケアマネージャーを指定して貰うためには介護認定が必要となってきます。このような話をマムシさんはしているはずですが、残念ながら理解して貰えていなかったようです。

 改めて、まとめますと、在宅介護をスムースに実現するためには、先ず、ケアマネージャーを決めて貰い、適切な介護支援を得ること。一人では無理です。そして、ストレスを溜めない工夫をして、健康維持に努めることだと思います。

 ペコにとっても何時までも啓介(著者)が元気で介護をし続けて呉れることを望んでいると思います。

 以上著書「娘になった妻、のぶ代へ」を読んだ感想を『独り言』としてまとめてみました。


ヘルパーの思い出
平成28年9月25日
 かつては私が所構わず物を置く。それを片付けるのが妻であった。片付ける妻の手が無くなった現在、部屋のあちこちに物が積み上げられている。最近、書類の山を片付けていると、10年以上前の資料が出てきた。

 2002年に医師の勧めによって介護保険制度の申請をしたが、介護度は「要支援」(当時は現在のように支援1,支援2に別れてなかった。)であった。その年は介護保険の利用は無かった。翌年の2003年に介護保険は「要介護1」となり、4月より週2日デーサービスの利用を開始した。本人がいやがらないか少々心配であったが、問題も無く通所出来ることが分かった。

 一方、ヘルパー派遣については母親も「家事」で受けていたが、掃除・買い物・食事を作ることはやって貰えるが、心が通じ合うふれあいがなく、時々トラブルを起こしていたので、躊躇していた。しかし、ケアマネージャーの勧めもあり、ヘルパー派遣を検討することにした。ヘルパー派遣に当たって、ケアマネージャーにお願いしたことは、妻が人との触れあいが出来なくなっていたので、「@蒲田までの買い物に一緒に出掛けること。A料理を手伝わせて一緒に作ること。B言葉がだんだん話せなくなって来ていたので、童謡を一緒に歌って貰うこと。C以上4時間の派遣。」をお願いした。長時間の派遣は月に三回程出掛けていたグループの会合に継続して出席できるようにするために必要としたものである。

 作業内容及び派遣時間は現状では考えられない事であるが、当時は介護保険制度が出来て間もなく、運用内容についても模索中であり、積極的にケアマネージャーも当局と折衝してくれて、長時間の派遣を認めて貰うことが出来た。また要求にマッチしたヘルパーを派遣して貰えるY派遣会社を探して貰うことができ、先ず、ヘルパーBさん、数ヶ月遅れてIさんを派遣して貰うことになった。

 ヘルパーBさんは非常に積極的なヘルパーで片道30分程掛けて蒲田まで買い物に出掛けてくる。帰宅後、食事の支度に取り掛かる。煮炊きは出来ないが、野菜など切る作業を手伝わせる。妻は料理が得意だったので、包丁さばきは見事な物で、「私より上手に切る。」と褒めて貰っていた。その後は童謡を一緒に歌って貰うために20曲程の歌詞をプリントしたものを用意しておいたが、最初の頃は10曲程歌えたようである。図1が出てきた歌詞を書いたプリントの一部である。
図1 当時使った歌詞のプリント 
 比較的足は丈夫であったので、買い物は同じように出掛けることが出来たが、月日と共に言葉を発することが出来なくなり童謡の方も次第に歌う数が、減ってきたようである。一方料理の方で包丁を使うことが出来ていたことから、特にこちらからお願いをしたわけで無いが、言葉が出なくなってきたが、、手を使わせたらどうかと考え、名前を書かせてたり、また 塗り絵とクレヨンを持参してくれ、手を動かす作業を初めてくれた。

 図2は日付と自分の名前を書かせたものである。一応、字は覚えていたようであるが、字の形を記憶の中から引出し、字の形に書き上げるにはかなり、苦労していた様子が分かる。一方、図3は塗り絵である。こちらは記憶から字の形を書くのと違って、目で見た映像から形を捕らえ、、色を塗る動作であるため、肌は肌色に、木は茶色に、またスイカは赤く塗っている。映像情報については、十分認識が出来ており、形状からそのものが何であるか判断し、そのものに対する色を選択し、細かい部分もはみ出すこと無く塗り分けている。図4は準備して貰ったクレヨンである。

 ヘルパーBさんに関しては本人との信頼関係もあり、3年半程お世話頂いたが、、家庭の事情からヘルパーを止めることとなった。
図2 日付と名前」を書いたもの
図3 塗り絵
図4 クレヨン
 ヘルパーIさんはBさんより半年程遅れて、派遣して貰うようになった。基本的に介護内容についてはB ヘルパーと同じである。Iさんは病院での看護経験もあり、患者の取り扱いにもなれており、スムーズに介護環境に慣れて貰えた。またヘルパー間の連携をよくして貰うために、Bさんと話し合いの場を持って貰った。

 介護制度は年を追う毎に改正され、家族がいると食事が駄目、散歩が駄目などと利用範囲が狭められると共に、一回の利用時間が制限されるなど駄目な物ばかりが増え、利用者からすると利用しにくいものとなってきた。一方本人の行動範囲もせばまってきたため、買い物も距離にして500M程のスーパーに変更になったり、また入浴介助、食事や掃除など作業内容は変化して来たが、長時間派遣をお願いした。当然のことながら、介護保険の適用範囲は縮小されているので、2時間は自己負担となっている。

 段々体力も弱まって来て、手を携えてやれば何とか歩ける程度になってきた。2011年末に掛かりつけの美容院に出掛けたが、20段の階段を上り下りして何とか用は果たせたが、美容院通いもこれが最後になりそうだと予感していた。年明けの2012年1月下旬に誤嚥による肺炎にかかり、2ヶ月程入院、その間に体力の低下と認知症が進み、両腕の硬直化と脚力を無くし、寝たきりの状態となった。

 その後の介護保険の利用はリハビリ、訪問看護、訪問入浴などが加わり、複雑になってきたが、月2回になったグループ会合に出掛けるためにはヘルパー派遣が必要になり、再びIヘルパーにお願いすることになった。作業内容は従来の散歩を中心とした内容から大きく変化し、身体の清拭、オムツ交換、寝間着の取り替えなど身体介護中心となった。身体の不自由な者に対するこれらの作業は2人でする場合は比較的楽だが、1人でするには可なりの体力とテクニックを必要とするが、Iさんの場合、過去の経験から安心してお願いすることが出来た。2014年の秋頃まで継続して貰っていたが、突然親戚の介護が必要となり、退職することとなってしまった。ケアマネージャーを介して、後任のヘルパーの検討もお願いしたが、1人で介護が出来また長時間対応して貰えるヘルパーを探し出すことが困難であることが分かってきた。一方、デーサービスへ出掛けることは本人に負担になるのではないかと、心配していたが、どうも寝て天井ばかり眺めているよりも、車椅子に座って、目線を水平方向にして眺めている方が安定していることが分かってきた。そこで、月二回のヘルパー派遣をデーサービスに切り替えて、現在に至っている。

 Iさんには要介護1の時代から要介護5現在に至るまで、10年間以上病状の変化を見守ってきて頂いており、安心してお願いすることができた人であった。

 現在も色々な形で、ヘルパーの支援を受けているが、今回古い資料の出現により、非常にお世話になった、二人のヘルパーのことを思い出し、改めて感謝を述べる次第である。


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