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緊急事態発生
平成24年2月16日
 妻は暮れの風邪も治り、例年のように無事に新年を迎えることが出来た。今年の正月休みは短く、5日よりデーサービスも始まった。しかし、10日過ぎ頃より、食事は従来のように食べていたが、歯茎と頬の間に食べ物が溜まる傾向が出て来た。また食べている感じなので、次の食べ物を口に持って行くと口を開けて食べる。しかし、暫くすると口の開け方が鈍ってくる。よく見ると、食べたものが、飲み込まれておらず、口の中に溜まっていることが分かってきた。
 
 その後の経過を追ってみると次のようになる。
 
13日 デーサービスから帰宅後、食事を摂らせるが、従来のように食が進まない。元気がないので体温を計ると、37度6分程あった。
14日 朝体温は37度2分程に下がっていたが、便秘も続いているので、デーサービスを休ませ、掛かり付けのAクリニックに行く。特に風邪などの症状もなく、血液検査と下剤を貰い帰る。夜、下剤を飲ませる。
15日 便が出ぬため、夜再び下剤を飲ませる。食欲もなく、夕方には37度4分程の熱が出る。
16日 朝やっと待望の便が可成り出たが、便秘日数からすると、もう少し量が多くても良いのではないか。便が出たものの、元気がなく、足に力が入らない様子。デーサービスを休ませることにし、Aクリニックに電話にて状況説明と、血液検査結果に付いて聞く。血液検査結果からすると、炎症などの問題はない、ただ食後の血糖値が、高く出ているので、『糖尿病の先生と相談してみてはどうか』とのことであった。夕食後、2回目の排便があり、少し落ち着いた様子である。
17日 朝の体温は36度7分程であり、余り元気はないが、前日よりは落ち着いた様子であり、昭和大学の神経内科の定期健診に行く。
18日 糖尿病のKクリニックへ行き、Aクリニックの血液検査の結果を持参し、状況説明をする。今月4日に行った血液検査から見ても、『薬の変更後若干数値は悪くなっているが特に問題ではない。』とのことであった。点滴で暫く様子を見ると言う方法もあるが、外来では大変であり、点滴を継続するとなれば、然るべき病院に入院となるだろう。一応点滴を受けて帰宅。
19日 前日の点滴のせいか、若干元気になり朝食もパンに牛乳をタップリ染み込ませて食べさせ、デーサービスに送り出した。午後定例の会合があり、最寄りの駅まで来たところで、携帯が鳴った。デーサービスからの電話で、『来所後、体温を計ったところ37度2分ほどであったが、食事前に計ると37度6分あったとのこと。』である。
 会合で若干説明を要することがあったので、説明のみを済ませて帰宅し、3時半頃デーサービスに迎えに行き、帰宅した。帰宅後の計温では37度2分と熱は下がっていた。
20日
22日
 20,21日とデーサービスを休ませ、様子を見ることにした。朝食のパンを牛乳に漬けたものは食べてくれるが、昼食、夕食は出来るだけ、水分の摂れる食べ物をと工夫して作るが、食欲がなく、また時間を掛けている内に、眠気を催し、口が開かなくなってきた。また、体温は朝は36度6,7分で夜になると上がるが、37度4分,3分、2分と下がる傾向にあった。
23日  朝、起きると顔を真っ赤にしてグッタリしているので、熱を計ると39度有り、救急車を呼ぶ。酸素吸入量が少ないため、救急車内で酸素マスクが付けられる。救急の受け入れ先病院の決定まで可成り、時間がかかった。病室がなく一旦断られたが、昭和大学病院で応急処置の対応をして貰えることとなった。本人は救急処置室に入り、諸手続を終えた時が丁度9時であった。早速、デーサービスに救急入院のため休むことを伝える。

 診断結果は『誤嚥による肺炎』とのことである。応急処置と検査結果の出るのを待って、入院可能な自宅に近い病院を探して貰い、池上の松井病院に再び救急車で移動。11時頃到着した。その後、残りの検査を受け、入院手続をすませて病室に治まったのが、12時半を過ぎていた。一旦、2km程の道程を歩いて帰宅。朝から何も飲まず食わずであったことに気づき食事を摂り、やっと落ち着く。

 その後、Aクリニック及びKクリニックに入院したことを連絡。再び病院に向かう。
 肺炎そのものは順調に快方に向かっている。しかし、今回の発病の原因は「誤嚥」にある。最近の食べ物、や飲み物の飲み込み方からすると、肺炎が完治したからと言って、食べ物の飲み込みが改善されるはずがない。即ち、口から食べ物を食べさせたら、再び「誤嚥」を起こすことが目に見えている。一方本人からすると、現在の最大の楽しみは「食べること」である。快復後、エネルギー補給の方法を最大の課題となってきた。

 エネルギーの補給方法として、次のようはものがある。
方 法 緒 言
(1) 従来通り、口から食物を食べる方法
最も自然であるが、「誤嚥」による肺炎の再発が目に見えている.。
(2) 点滴による方法
(末梢静脈栄養法)(中心静脈栄養法)
手足からの点滴(抹消静脈栄養法)は一時的で長期には適さない。十分な栄養補給のためには肩や首付近の血管から点滴を施す方法(中心静脈栄養法)もあるが、8〜24時間と長時間の注入時間を必要とし、ほぼ寝たきりの状態となる。
(3) 鼻から管を通して、食物を胃に送り込む方法
(経鼻胃管法)
手術などせず、鼻から管を通し、胃腸を使った栄養投与方法で、点滴よりも普通に近い食事をとることができる。しかし、常に管をぶら下げており、本人も鼻や喉に違和感を感じる。また、室内の移動は可能だが、基本的に外出などは出来ない。
(4) 胃に管を通し、食物を胃に送り込む方法
(胃瘻)
胃へ直結したチューブを付けるための手術を必要とするが、朝晩2回それぞれ2時間程度の栄養補給で良い。また、食事時を除いて、一応行動が自由に出来る。また入浴も可能であり、口からの食物を食べることも可能である。
 本来(1)が最も自然で、発病前と同様に口から食べられるのが望ましい。しかし、「誤嚥」は本人の身体的構造によるもので防止策がない限り、再発は時間の問題である。今回のような苦しみを繰り返して起こさせたくない。そのためには別のエネルギー補給手段を検討する必要に迫られた。

 (2)の点滴は長期に利用するためには「中心静脈栄養法」となる。しかし、基本的に24時間体制で点滴をすることとなり、殆ど寝たきりの状態となってしまう。(3)は鼻から管を通し、普通食に近い食べ物を胃に直接送り込むことになり、時間も2時間/回程度となり、楽であるが、鼻から通した管は食事時だけに付けるのでなく、24時間付けっぱなしのため、本人には当然違和感がある。また、傍目からも鬱陶しく感じられる。

 (4)の胃瘻は当初、胃に直接、管を通し食べ物を送り込むのだと聞いた時、最も違和感を感じる方法だと思った。しかし、冷静に話を伺っていくと、処置(手術)そのものも20分程度で済み、その後、食事時以外は基本的に行動が自由に取ることが出来ると同時に、口からも食事を摂ることも可能であることから、本人にとっても生活しやすい環境であることが、分かってきた。そこで「胃瘻」の処置を受けることを決断した。

 2月7日に胃瘻のための処置を予定していたが、当日の血液検査の結果処置できず延期となったが、2月14日に無事、胃瘻処置が実施された。

 今後食事の摂らせ方や本人の体力回復のトレーニングを受けて、退院することとなる。しかし、もう一つ大事なことは行動に対する記憶がどこまで、戻ってくれるかにある。前回の「靴擦れ」事故においては、自分で立ち上がることから、歩くことまで、忘れてしまった。入院前までは出来ていた、誘導による立ち上がり、歩行及び段差を認識して足の上げ下げが出来ていたが、どこまで快復できるかが心配である。いずれにしても介護の仕方が可成り、変化することになるだろう。
 

無事退院できたが
平成24年5月17日
 妻は3月29日に2ヶ月間の入院生活を終え、無事退院することが出来た。しかし、退院後の環境の変化は覚悟していたが、『衣』『食』『住』全てにおいて入院前と環境は一変してしまった。

【環境の変化】
 入院前の主な一日の行動は以下のようであった。

 朝、目が覚めると手を引いて、ベットに座らせる。2,3度手を引くと自ら足を踏ん張り、立ち上がってくれる。一旦椅子に座らせ、若干手はかかるが、服に着替えさせる。朝食も食べさせる必要はあったが、準備したものは全て食べてくれる。

 デーサービスに出掛けるため、手を携える必要はあるが、自分で歩き上がり框では段差を認識し、足を曲げて2段の段差を下りる。一旦、椅子に座らせ、靴に履き替える。その後、玄関と門の2カ所の段差を下りる。路地を10mほど歩いて、送迎車の来る道路まで出る。道路を2,30m程歩かせていると送迎車が来るので、乗り込み出掛ける。

 デーサービスでは昼食を完食している。5時頃帰宅するが、道路より家まで歩き、都合4段の段差を上って定位置の椅子まで歩いてくる。夕食も出したものは先ず残すことなく完食する。入浴をして、寝間着に着替え、床に入る。

 以上のように少なくとも昼間は起きて衣服に着替え、普通に食事を摂り、外出も出来る生活を送ることが出来ていた。

 これに対して、退院後の現状は以下の如くである。

 2ヶ月の入院中寝たきりの生活から、歩くということを忘れて仕舞ったことである。特に、本人にとって不自然な体位で寝かされていたため、手、足共に硬直化し、手は身体に密着させた状態で、また足は完全に真っ直ぐ伸ばすことが出来ず、くの字の状態になっている。従って退院後は歩くことは勿論、立つことも出来なくなったため、現状はベットに寝たきりの状態である。

 食事はベットで半身起こした状態で、口から食べるのでなく、経管栄養を胃瘻を介して、点滴によって投与しており、食べさせていると言うよりも、栄養補給を行っていると言った感じである。この結果、入院前後で、「衣」「食」「住」に大きな変化が起きている。

【『衣』『食』『住』の変化】

 『衣』:従来は立つことも出来、時間は掛かるが、普通の服を着せることが出来たが、寝たきりではこれらの服を着せることが出来ず、所謂介護用の袖の広い寝間着類となる。現在は寝たきりなので、寝間着だけで済んでいるが、今後身体が動くようになり、車椅子で散歩など出掛けるようになった際、どのような服を求めて行くべきなのか、思案中である。

 『食』:入院前までは食べさせてはいたが、殆ど同じ食事を一緒に食べており、二人で食事をしていると言う感覚はあった。しかし、現在は経管栄養を、胃瘻を介して投与することとなり、毎食全く同じ栄養食を投与し、その点滴の落ちるのを眺めての食事となっており、全く無味乾燥である。

 『住』:入院前はベット用のマットのみを畳に敷いて使用していたが、現在は介護用のベットをレンタルすることとなった。また、車椅子は外出用として利用していたので屋外に置かれていたが、今後は屋内利用も必要となり、室内に持ち込むこととなった。また従来は自力で外出出来ていたが、、今後は家の中から、車椅子での外出となるので、玄関先にスロープが必要となった。

【介護保険利用の変化】
 「衣」「食」「住」の変化もさることながら、介護保険の利用方法(内容)が全く、変わってしまった。

 入院前の介護保険の利用は週4回のデーサービス利用と1回のヘルパー派遣であった。これらの日にちはこちらの希望する曜日を設定しており、少なくともデーサービスに出掛けている時間及びヘルパー派遣の時間帯は介護から離れ、自由な時間として利用することができた。

 退院後の介護の環境整備のため、病院の関係者とケアマネージャとの三者で話し合った。その結果、最低限必要なことは、訪問医療、訪問介護、訪問リハビリ、訪問入浴の4点に絞られた。そして、これらの利用機関を決定し、それぞれに照会状並びに指示書を書いて貰うことになった。以上の4点の内、医療、看護及びリハビリは入院中病院で行われていた行為であり、当然医療保険の範疇のものと思っていたが、看護及びリハビリは介護保険の範疇であることを知り、驚いた次第である。

 いずれにしても4つの機関のそれぞれ異なった介護内容の作業のために、それぞれ違った人達が訪問してくることになる。医療を除いて、看護、リハビリ、入浴の3つは何れも1時間であるが、その間介護そのものからは解放されているが、時間的にはそれぞれ何らかの対応が必要であり、時間的には拘束されることになる。

 即ち、入院前の介護保険の利用は本人も気分転換になっていただろうし、私自身も介護から離れ自由時間を確保できていた。これに対して退院後は直接的介護からは解放されるが、時間的解放は全く得られなくなった。むしろ時間的拘束を受けることになった。

【1ヶ月経過して】
 退院後の当初はそれぞれの介護内容に伴って、それぞれの人が訪れ、それぞれの介護作業をやっていってくれる。余りにも目まぐるしく、整理が付かなかったが、やっと1ヶ月を経過し、それぞれの役割と期待が分かってきた。
訪問医療 月2回往診と処方箋の発行
訪問看護 血圧、脈拍、体温等の計測、下の処理並びに清拭、胃瘻部分など患部処置、寝間着やシーツなどの交換など介護全般
訪問リハビリ 手足など硬直化した部位のマッサージ、座るための訓練など
訪問入浴 浴槽を持ち込み、ハンモック状に体位を保ち、寝た状態での入浴並びに洗髪
 訪問医療により月2回往診して貰うことが出来、通院の必要がなくなり有難いことである。訪問看護も胃瘻の状態をも含め、適切に看護して貰うことが出来ると同時に、医療部門との連携を取って貰うことができ、これもありがたいことである。訪問リハビリは本人の現状維持だけでなく、身体の動きを改善し、少なくとも車椅子で外出できる状態まで、復帰できることを期待している。本来なら隔日位に対応して貰いたいところだが、介護保険のため、週当たりの時間制限があり、1回/週となっているのが残念である。訪問入浴は本人をリフレッシュさせる意味で、最も有難いことである。入院前本人の楽しみは食事と入浴のみであり、基本的に毎日入浴していたが、新年を迎えて体調を崩し始めてから、3ヶ月間入浴しておらず、入浴は退院後まず最初にしてやりたかった事柄であった。

 訪問医療と3つの介護支援は現状の妻にとっては必要であり、私には代行できないものであり、重要である。しかし、1ヶ月以上経過し、冷静に考えてみると、入院前の介護保険利用(デーサービス及びヘルパー派遣)は私にとっては少なくとも週30時間のフリ−タイムを生み出すものであった。これに対して今回の内容はそれらの訪問時間に立ち会うことが約束されただけで、フリータイムを生みだすことにはなっておらず、むしろ拘束されたことになる。即ち、『4時間は介護保険及び医療保険で対応してやる。後は勝手に考えろと言うことになる。ましてや、お前のフリータイムなど知ったことはない。』と言うことになりそうだ。

 【現状と今後】
 本人の心の内は全く分からないが、顔の表情から察するに、やっと我が家に戻ってきたのだという安堵感は持ってきているようである。何とか手足の動きを少しでも改善し、先ず車椅子に座らせること。そして、散歩に出掛けること。更に欲張れば、デーサービスに1時間でも2時間でも出掛け、違った雰囲気を味わえるようになれればと、淡い期待をしている。

 一方、介護は基本的に24時間体制である。介護する側からすると、支援の得られない時間の介護は当然やらなければならない。前掲のように1週間168時間の内、今回の医療及び介護保険による時間は高々4時間である。残りの164時間に発生する介護に対応する必要がある。


 例えば、従来の食事時間は30分程度で済んでいたものが、現在は経管栄養の投与時間に1時間かかり、食後(投与後)逆流を防ぐために30分は上半身を起こした状態でいるので、一回の食事に最低、1時間半付き合っている必要がある。即ち1日4時間半から5時間対応していることになる。また、3時間間隔位で、下の処理が必要になる。特に、日に1回は排便があり、その処置には最低でも30分を要することになる。この他、掃除、洗濯は当然のこととしてやらねばならない。

 以上のように在宅介護でやらねばならぬことは山程あるが、介護保険が対応してくれるのはほんの一部で、残りと言うよりも大半の介護は介護者がせねばならならず、考え出すと息の詰まってしまうことである。

 介護で最も重要なことは如何に介護をするかと言うことではない。如何に息抜きできるフリーな時間を捻出できるようにするかである。今後の介護の方向性が見えてきたので、まだ余っている介護保険枠の利用を含めて、自分の時間を捻出するかを考えて行こうと思っている。
 


知能とコンピュータ
平成24年7月31日
 コンピュータの普及が始まった昭和40年前後、学会誌などでも「コンピュータは人間の知能を作り出すことが出来るか。」真剣に論じられたこともあった。この50年間のコンピュータの進歩は目覚ましいものがあり、人間そのものを置き換えることはできないが、人間の有する機能の一部を代行するロボットという形で、発展し実用化されてきている。

 妻が認知症に罹った当初は「何故こんなことが分からないのか。」と腹立たしく思ったが、パソコンが故障した際に起きる現象と比較してみると、認知症の行動における症状というものが、理解できるようになってきた。パソコンの場合には、故障したハードウエアの交換やソフトウエアの再インストールで再生されるが、人間の脳の場合、交換や修理が出来ない。そこで『脳の壊れた部分(失われた記憶)の再生できないことを悔やむよりも、残った機能でどこまで使えるか。』を考えた方が気が楽になることを発見した。

 【初期症状】
 妻の異常に気づいたのが、21世紀を迎えた2001年である。多弁だった妻が段々と話をしなくなった。最初は口うるさくなくなり、よいとも思っていた。しかし、電話が鳴るとサッと受話器を取り、電話口に出るが、まだ話の途中だと思われるのだが、どうも一方的に受話器を置いているようである。その内、電話が鳴っても電話を取りに行かなくなってきた。また、買い物に出掛けた際、顔見知りの人に会うと、誰彼なく話し込むのが常であったが、話をしなくなっているようである。話さないだけでなく、挨拶されても、返す言葉もなく通り過ぎるようになったようである。また、買い物には毎日蒲田まで歩いて、出掛けていたので、買い物に出掛けることは不思議でなかったが、朝買い物に行ってきたのに、昼食を済ませると、また出掛ける。買い忘れがあったのかと思うとそうではない。朝買って来たものと同じものを買ってくるようになってきた。


 【通院】
  本人も了承の上で通院を始めたのが2001年の夏で、掛かり付けのAクリニックを訪問、紹介で脳ドッグを中心に診療するSクリニックでMRI検査を受け、前脳に影があり、精神的に異常であることが分かった。1年経過後、今度は紹介を受けて、荏原病院のN先生を訪ね、MRIの受診の結果、前年と余り変化はないが、前脳に影があり、脳梗塞との診断結果であった。言語問題では学会友達で一目を置く先生が昭和大病院にいるので、紹介すると言われて、K先生をご紹介頂いた。そして、再度、MRI検査を受け診断結果、ピック病であることが判明した。K先生は認知症を医療面からだけでなく、心理面からも研究すべく中央大学の心理学M先生と共同研究をされておられる。通院予約日はM先生も昭和大に来られているので、K先生の受診後、M先生を訪問し、2〜30分状況報告と共に色々な道具を使って、手の動かし方や反応など機能を確かめて貰ってきている。当初は月1回のペースであったが、数年後より2ヶ月に1回のペースで、通院し、今年で10年を迎えている。M先生を訪問し、介護状況を報告し、共感を得られていることから、私自身も心理面での支えとなり、非常にありがたく思っている。

 【ヘルパーによる支援】
ブーさんの塗り絵
 2002年の介護認定で、介護度1となり、デーサービスの利用とヘルパー派遣を受けることになった。介護制度も発足したばかりであり、利用幅があった。特にヘルパー派遣では蒲田までの買い物、夕食作りの支援及び童謡を歌うことを依頼した。買い物は本人の歩くルートを廻って貰い、料理のための食材の購入をする。料理そのものは作れないが、食材の準備を手伝わせて貰っていた。料理作りは得意としていたところであり、包丁さばきはヘルパーも驚くほど上手かったようである。童謡については20曲ほど歌詞を準備しておいたところ、当初は文字も読むことが出来たので、10曲程歌うことが出来ていた。月日と共に歌う曲数が減ってきたので、ヘルパー自ら塗り絵本とクレヨンを持参してくれ、塗り絵を始めてくれた。これも当初は本人の性格を表し、枠を外すことなく綺麗に塗っていた。食事作りの手伝い、童謡・塗り絵は2,3年続いたが徐々に出来なくなった。パソコンで言えば音声がでなくなり、ペインティングソフトが壊れ利用出来なくなったことになる。

 【食事と入浴】
 妻にとっては食事は最大の楽しみである。食事は先ず出した物は全て食べてくれるので、有難かった。出来るだけ箸を使って自分自身で食べることを心がけた。ご飯とおかずを交互に食べることが出来ず、ご飯もおかずも器単位で食べるが、箸は上手に使い、細かい物も摘むことが出来ていたので、自力に任せていた。しかし、1つの器を食べ終わると、次の器に手を伸ばし、取りに行くことが出来なくなりだしたので、1つ食べ終わると別の器に交換してやる必要が出て来た。その内、箸の摘む動作は問題ないのだが、1つの皿の中の食べ物の位置へ移動することが出来なくなり、箸の移動が皿の1点と口との往復となりだした。そこで箸の移動位置へ食べ物を置いてやることで食べさせた。そして、2年程前から、食べ物をこぼし始めたので、自力で食べさせることをあきらめ、食べさせてやり始めた。それでも食欲はあり、入院前までは完食できていた。箸の操作はキーボード操作に相当するもので、正常であれば操作は退化することはないのだが、それぞれのファンクションキーの役割が分からなくなりだし、文字入力も分からなくなった状態である。

 入浴も,もう一つの楽しみのであり、余程体調が不良でなければ今年の正月まで毎日入浴をさせてきた。初期の頃は入浴の前後に注意すれば一人で入っており、30分〜1時間ほど浸かっていた。5,6年前からは湯船への出入りの際、見守る必要が出て来たが、何とか風呂の縁を支えにしながら自力で出入りが出来ていた。しかし、2,3年前からは体力及び身体を動かすための機能が低下し、湯船への出入りの際の介助が可成り必要となり、また湯船内でも体位の変化を自分で修正できなくなりだしたので、入浴中監視が必要になった。入浴は長持ちさせるためにパソコンのキーボードやディスプレイ画面を綺麗に掃除するようなものであるが、マウス内のボールの滑りが悪くなり、カーソルが上手く動かなくなってきたのに等しい。

 食事をすることや入浴をすることは基本的に活力の動力源であり、パソコンで言えば、電源系統に相当する。安定した電力が供給されていなければ、幾ら性能の良いパソコンでも動作は不安定となる。パソコン内蔵のバッテリーの充電機能の低下に通じるものである。


 【社交ダンス】
 妻の友人夫婦がダンスをしていることから、ダンスを習いたいと言いだし、退職後NHK文化センターのダンス教室に3年ほど通って一旦止めていたが、また再開し池上のダンス教室に通い始めた。ブルース、ワルツ、タンゴ、ルンバ、ジルバ、チャチャチャと一通りのダンスは踊れるようになった。認知症に罹ってからも、先生にお願いしてリハビリを兼ねて練習に通わせて貰っていた。初期の頃は新しいステップも正常の時の3倍ほど時間はかかるが、少しずつ覚えることが出来ていた。次第に新しいことは殆ど覚えられなくなってきたが、踊るだけでもリハビリになることなので、通っていた。しかし、練習を開始し、2,3曲は普通に踊れているのだが、次第に踊れなくなり、途中で止まってしまうようになりだした。最初は理由がよく分からなかったが、どうも最初の内は無意識に身体が覚えた通りに踊っているが、回数が進むにつれて、自分なりに踊り方を頭で考え始めるらしい。正常であればステップに同期して上手く踊れるようになってくるのだが、「考えがステップについて来られなくなるらしい」ことが分かってきた。こうなってくるとダンスそのものが踊れなくなり、5年ほど通ったが止めることとなった。これはある応用ソフトを使い始めた時には使えているが、暫くすると上手く動作がしなくなることがある。例えばメールソフトを立ち上げ、最初は順調に送受信できていたが、回線トラブルなどでメールの送受信が、出来なくなる現象と同じである。


 【散歩】
 認知症というと「徘徊」がつきものである。日常の主婦の仕事と言えば、家の中で家事をしたり、テレビを見ながらお茶を飲むなど寛いでいるか、食事のための買い物のために屋外に出る。途中知った人に会うと世間話をして時間を潰している。


 しかし、認知症になると「家の中で掃除でもしよう」また、「夕食の買い物に出掛けよう」と行動するための考えがなくなってしまう。しかし、家にいても何もやることがなく、詰まらなくなる。何か買い物をするわけではないが、自分の居場所を家の外に求めるのだと思う。その結果、先ず家を出る。そして、目的もなく、あちこちを歩き回ることになるのだと思う。

 妻もご多分に漏れず、池上警察署に3回ほどご厄介になっている。本人からすると『家にいても何もすることがない。家の外に出れば身体を動かすことも出来、違った景色を見ることができるので、気晴らしにもなる。』と思って家を出るのだろう。介護する側からすると、『家で一日中付き合ってることも出来ない。徘徊されても困るので、簡単に家を出れないように戸締まりをしっかりしよう。』と言うことになる。本人は「出て行きたい」、介護する側は「出て行かないように対策をする」。これではお互いにストレスが溜まる結果となる。そこで逆転の発想で「外へ出たがり、歩き回る元気があるのだから、逆に時間を決めて外に連れ出したらどうだろうか」と思いついたのが、散歩である。

 先ず、日常のスーパーへの買い物には一緒に出掛けることにした。往復で約1km程である。また、正常な頃、気がむいた時、多摩川まで二人で散歩に出掛けていたことを思い出し、夕食後多摩川方向への散歩に出掛けることにした。コースによって3〜5km程歩くことになり、一寸した良い運動となった。その後、池上方面への散歩に切り替えほぼ同じコースを歩いていた。ある日突然、ある路地の所で立ち止まり、路地に入って行きたい様子だったので、入っていったのを切っ掛けにそれ以降本人の歩きたい方向を歩かせることにした。すると我が家を中心に2km四方を毎日コースを変えて歩き、最終的には自宅まで戻ることを発見した。これにより完全に言葉は失っているが、目からの映像情報は確かであることが確信できた。パソコンで言えば、殆どのソフトは利用できなくなっているが、スキャナー部分だけは確実に機能し、印刷物などの画像情報をしっかりとパソコンに取り込むことが出来ていることになる。この散歩は靴擦れによる事故まで続き、少々の雨でも傘を上手にさしてほぼ毎日1kmから3km程の道程を散歩するのが日課となっていた。靴擦れ事故以来、スーパー(往復約1km)への買い物となったが、次第に脚力が鈍りだし、昨年には並んで歩くことが出来なくなり、手を携えて歩くこととなったため、天候を睨みながらの家の周り200〜300mの散歩となっていた。


 【まとめ】
 振り返ってみると妻にとっては20世紀中時計の針は順調に時を刻んできたが、21世紀(2001)と同時に時計の針は逆回転を始めたようである。時計は高速に巻き戻しが始まり、60数年間掛けて得てきた知識や経験、更に数々の人生の想い出を殆ど全て4,5年間で忘れ去ってしまったことになる。当初は身体に障害があったわけではないので、手足は正常に動かすことは出来ていた。パソコンで言えば、各構成要素間のやり取りを制御する基本ソフトウエア(OS)は正常であったことになる。しかし、この機能も入院前には、助けを借りると立ち上がり、何とかヨチヨチ歩きが出来る、12ヶ月児位の体力になっていた。そして退院後は立つことは勿論歩くことも出来なくなり、やっと座らせて、少し支えてやると座っていることが出来る、4,5ヶ月児レベルとなってしまった。

 しかし、胃瘻処置によってバッテリーの充電機能は再生できた。現在リハビリ中で何とか車椅子に座らせ外出出来るようにしてやるべく、努力中である。前述のように目で見る力即ちスキャナーは正常に機能しているようである。退院当初は目の焦点が遠くを見つめ、どこに合っているのか分からなかったが、最近は人の顔を追いかけるようになり、顔に明るさが見えてきている。ベットに寝た状態で縦の物を横向きで眺めるのでなく、車椅子に座らせて縦の物を縦として眺めさせてやることが第一歩と考えている。

二人旅に”幕
平成24年9月26日
十和田湖 乙女の像前にて(H13.7.28)
ドラマの始まり】
 平成13年(2001)の年初より妻は口数が少なくなり、異常を感じ始めていたが、本人は医者嫌いのため、神経系の医療機関に連れて行きかねていた。例年のように7月に阪急交通の1泊2日のツアーで東北地方(中尊寺ー十和田湖・奥入瀬ー松島)に出かけた際、通院を薦めたところ、本人も薄々異常には気づいていたようで、帰宅後、精神科に通院することに同意を得た。十和田湖・奥入瀬渓谷は新婚旅行先に考えようとしたが、仲人より当時の気候では「11月では雪の降る季節で止めた方がよい。」と言われ、中止した場所である。この忠告は正しく、裏磐梯よりバスで吾妻富士を経由して福島に向かう予定だったが、積雪のため迂回する結果となった。結婚後39年ぶりに実現した、十和田湖・奥入瀬渓谷となったが、これが新たな二人旅の始まりとなった。

【旅とホームページ】
 本ホームページは平成12年(2000)7月に「池上本門寺とその周辺」を開設した。平成13年(2001)2月に大倉山の「梅」を、3月末に靖国神社及び千鳥ヶ淵の「櫻」を観に妻と二人で出かけたのを機に、『季節の花を求めて』と題してホームページを立ち上げた。偶然にも先の東北地方旅行の際、中尊寺入り口で開花していた800年の眠りから覚めて、開花していた「蓮の花」もこのページの1部を飾ることとなり、この『季節の花を求めて』出かけることも『二人旅』の一画を占める結果となった。

【二人旅とは】
 ここで言う「二人旅」とは一般的に言う所の旅行ではない。妻の意思に関係なく、妻を連れて家から外へ出かけることである。ある時期には日課となっていた散歩。それぞれの花の開花時期に合わせて日帰りで出かける一寸した旅。宿泊旅行。これら全てが含まれる。道中必ずしも無事でなく、笑い話で済まされないような、トラブルが色々と発生している。

【交通手段】
回転・昇降機能のついた車
 散歩はまだ妻が元気な頃、気候の良い時期に多摩川まで出かけていたが、次第に日課となって仕舞った。散歩の内容については既に報告済みなので、そちらを参照願いたい。先ず、一番気を気遣ったことは常に目を離さないようにすることである。また、阪急交通のバスツアーをその後2回ほど利用したが、朝早くから出かけることが出来なくなってきたため、1日旅行や宿泊旅行とも公共交通機関を利用せず、車の旅となった。少なくとも車での移動中は「身柄」を確保できているので安心であった。

 ここ2,3年前より車に乗せる際、自分から乗り込むことができず、座席に座らせるのに苦労するようになってきた。昨年春車検半年前の点検の際、小型車で補助席が介護用となっていて、椅子全体が回転・昇降する車が販売されていることが分かった。当時の車が可成り年数を経過していたので、買い換えることにした。これによって、通院や旅行に便利に利用できるようになった。

【トイレ問題】

 旅行中最もトラブルが発生したのがトイレ問題である。初期には自分でトイレを探し出かけていたが、徐々に誘導が必要になってきた。
 ◆その1
 最初のトラブルは「失禁」である。2003、4年頃の夏、多摩川の散歩の帰途、小学校の校庭で盆踊りが行われていたので、暫く見物していたが、様子がおかしいので、ひょっと見ると「失禁」していた。これ以降、しばらくは外出の際に下着とズボンの替えを持って出かけ、トイレへの誘導を頻繁に行うようになった。リハビリパンツに切り替えるまでに少々時間が掛かった。

 ◆その2
 第2番目のトラブルは平成15年(2003)佐原市立水性園に出かけた帰途、酒々井ドライブインでの出来事である。トイレより戻り、売店に入った所でひょっと見ると常に持って歩いている黒の手提げ鞄を持っていない。女子トイレに入っていくわけにはいかず、管理責任者を呼んで貰い、トイレに戻り探して貰うこととなった。幸にも余り込んでおらず、ドアを一つ一つ開けて行くと3,4番目の場所で見つけることができた。

 その後、トイレから戻った手に鞄を持っているか注意するようになった。足柄ドライブインでも出入り口付近で待っていると、出て来たが手に鞄を持っていない。折り返して入っていくと、トイレのドア前で騒いでいるグループがあった。トイレ内に鞄が置き忘れてあり、「どうしようか」と話し合っている様子なので、見ると本人のものであり、お礼を言い戻ってきた、こともある。

 ◆その3
 確か山中湖の花の都公園の駐車場でのことである。一人でトイレに行かせたところ、一向にトイレから出てこない。やむなく管理人を呼びトイレに入っていく。トイレは小さいので、入っている場所は直ぐ分かった。しかし、ドアを叩けどドアが開かない。やむなく脚立を持ってきて貰い、幸にもドアの上部が開いていたので、ロックを外して貰い連れ出したこともある。

 このような事件があり、一人でトイレに行くことが無理になってきた。最初は身障者用トイレの利用を憚ったが、次第に利用を始めた。利用してみると便利である。最近は公共施設であれば身障者用トイレが必ず設置されており、広さがあって比較的綺麗である。身障者にとっては非常に便利になり、有難いことである。

最後の合成写真:巾着田(H16.9.15)
姥子保養所前(H17.6.27)
【二人の写真】
 初期の頃は歩くことは問題がなかったので、見失わないように一緒に花を見ながら歩いていれば良かった。所々で二人の写真を取る際には、先ず妻を立たせて撮る。今度は私が同じ位置に立ち、妻に撮影位置でカメラを構えさせて撮らせる。後は写真を合成する方法を当たり前のようにやってきた。しかし、平成16年(2004)10月に神代植物園にばらを観に行った際、何時ものようにカメラを持たせるが、カメラを操作できなくなり、それ以来、二人の合成による写真を作ることができなくなった。余り他人に撮って貰うことを憚っていたが、記念のために必要に応じて他人に撮影を依頼するようになった。

【妻の楽しみ】
 妻の最大の楽しみは食べることと、入浴である。この楽しみを満足させてやるために、年2,3回は温泉旅行に出かけてきた。車での移動であり、高々200km圏内となり、伊豆箱根及び富士五湖周辺が中心である。特に退職前勤めていた会社の保養所が箱根の姥子にあり、気兼ねなく利用できるので、毎年1度は訪れていた。この保養所は木造2階建てで、階段のため、上り下りが不可能となり、平成22年に訪れたのが最後になってしまった。

 ◆食事
 妻にとっての楽しみの一つは食事である。普段自宅では糖尿を患っており、量的に制限を掛けていたが、旅行の際には少々羽目を外して食べさせていた。初期の3年間程は自分で食べられていたが、中盤の4,5年は、箸を任意の位置に動かすことができなくなり、箸の動く位置に器を移動してやったり、食べたそうなものを小分けしてとってやる必要がでてきた。後半の3,4年は食べ物をこぼし始めるようになり、完全に食べさせてやる必要があった。いずれにしても、必要な分量は全て食べてくれ、無理矢理口に押し込んで食べさせるということは全くなかった。

 ◆入浴
 妻にとってもう一つの楽しみが温泉(入浴)である。最初に出て来た東北旅行では単独で勿論大浴場が利用できたが、普段の行動から、次第に単独行動がとれなくなってきたので、風呂付きの部屋、または貸切風呂のある旅館を利用する必要があった。温泉の風呂の形状は温泉一軒一軒異なっている。身体が自由に動けていた時代は転ばないように誘導してやれば問題なかった。自宅の風呂でも自分で自由に出入りできていた時代から、誘導が必要になり、最後は可成りの力が必要になったように、風呂の形状を見て、どこにどのように座らせ、どのように湯船に浸からせるかを考えることも屡々出て来た。そこでここ2,3年は旅館選びのために貸切風呂があるかどうかの他に風呂の形状のチェックも必要になった。その点、前出の姥子の保養所は行き慣れているので、非常に便利に利用できた宿であった。

【車椅子の利用】
 そもそも二人旅は散歩からスタートしている。従って可成り歩くのが不自由になってきても、旅行に出た時は多少歩くのが遅くても歩かせていた。平成21年(2009)11月に下部温泉に宿泊し、翌日身延山に向かった。カーナビに従って到着したところが、車が10数台しか駐車できない山腹の駐車場である。身延山には平成13年(2001)4月に阪急交通のバスツアーで訪れたことがある。その時は山門の入口で下車し、急な石段を登る。一方バスは階段の左側を通って本堂横の駐車場に移動した記憶がある。不審に思いながら車を降りると、丁度、車から降りてきた人に出会い尋ねると「ここが久遠寺の駐車場でこの上(見えない)が久遠寺本堂に通じる境内にでる。」とのことであった。尋ねた人は久遠寺の職員(僧侶)で出勤して来たところであった。妻の不便な足取りを見て、社務所に貸出用の「車椅子」があるとのことで借用した。下車した駐車場は職員用で、想像していた駐車場とは境内を挟んで正反対の山を少し、下りた位置にあり、車椅子をお借りしたことで、広い境内もスムースに移動でき、また身延山山頂へのケーブルカー入口までの緩やかな勾配の道も楽に移動できた。ケーブルカーへの車椅子の持ち込みはできないが、ケーブルカーに乗るまでの階段を上ることができれば、山頂で車椅子を借りることができることが分かった。お陰で山頂での移動も苦労なくできた。改めて車椅子の便利さを知り、それ以降車椅子を車に常備することとなった。

元気に石段を登る妻(H13.4.8) 久遠寺本堂前 車椅子にて(H21.11.10)

【想い出に残る旅】
 どの旅も大なり小なりのハプニングを起こしての旅であり、想い出に残るものである。旅の中で一つだけ、妻の女学校時代の友人を訪ねた旅がある。子供が小さい頃、家を訪ねてこられ、一度お会いしたことがある。厚かましくも平成16(2004)年8月末に茅野に住む友人に会うため、諏訪湖まで出掛けた。ご夫婦で宿まで出向いて貰い、再会することができた。再会しても妻は何も話すことができないが、顔は分かったようで、持参してくれた結婚前に二人で出かけた厳島神社で撮った写真を見て、少し微笑んだようであった。翌日は自宅を訪問し、昼食をご馳走になり帰途についた。

 又2年後の平成18年9月にも再度諏訪湖を訪れ、再会している。翌日は諏訪湖より霧ヶ峰高原から蓼科高原を一緒にドライブし、茅野インターより帰宅した。

河口湖を背景に(H23.11.15)
【二人旅に幕】
 昨年(2011)7月に箱根まで出かけたが、2,3時間の車での移動が少しきつくなってきた様子になっていたので、秋に出かけられるか一寸心配であった。しかし、体調も悪くないので11月に旅行に出ることにした。富士五湖周辺は度々訪れているが、宿泊は箱根となり、今までは五湖周辺で宿泊したことがない。旅も最後になりそうなので、富士山の見える河口湖周辺で宿を探すことにした。しかし、五湖周辺は古い宿が多く、風呂がよいと思うと木造建てでエレベータがないなど探すのが困難であったが、河口湖の北側、河口湖越しに富士山の見える宿を見つけることができた。宿は部屋付きの風呂から河口湖越しに富士山を見ることができる最適の宿だったのだが、残念ながら雲に覆われていたが、朝食後一瞬だけ山頂を覗かせてくれたのが有難かった。

 今年も何とか頑張って旅に連れて行ってやりたいと思っていたが、1月末の肺炎による入院後、寝たきりの状態となってしまい、「二人旅」に”幕”を下ろすこととなった。

 妻は言葉を失い、知識も失い、今度は身体の動きも失ってしまった。しかし、眼だけはしっかりしており、映像情報だけはしっかり記憶できていると思っている。毎日歩いた散歩道、季節の花々、毎年訪れた箱根、度々訪れた富士五湖、熱海・伊豆の景色そして諏訪湖での友人との再会などの映像は、想い出に残っている確信している。

 旅は過去のものとなってしまった。現在は寝たきりで一歩も屋外に出ることができない。車椅子で一歩でも屋外に出られる状態にしてやりたい。リハビリに励んでおり、車椅子に乗ってリハビリを受けられるようになってきた。何とか屋外に出られる「光」が見えて来たようである。

入院後の1年間を振り返って
平成25年1月31日
 昨年1月末に誤嚥による肺炎を起こし、2ヶ月間入院し、3月末に退院した。入院前は立ち上がることが出来、よちよち歩きではあるが、歩くことが出来ていた。しかし、退院後は全く歩くことは勿論立ち上がることも出来なくなった。更に手の硬直化が進み身体にくっつけた状態で動かなくなってしまった。

【退院直後】
 入院前はデイサービスを中心に介護支援を受けていたが、退院後は介護そのものの内容が大きく変わってしまい、当初は環境の変化に面食らった。

 入院前の介護は介護保険による4回/週のデイサービス及び1回/週のヘルパー派遣を受けながら、食事や入浴などの介護を行ってきた。これに対して退院後は介護保険により、週2回(当初は1回/週)のリハビリ、週1回の訪問入浴、看護支援並びに訪問介護。更に月2回の訪問医療を受けながら、食事(栄養剤の投与)及び身体介護をするようになった。

 従来は少なくともデイサービスに出掛けている時間帯は介護から離れた時間を持つことができたが、現在は各種介護の訪問に対する対応が必要であり、その他は寝たきりのため、24時間見守ることとなった。買い物など外出は体調の安全を確かめて、駆け足で出掛けてくることになった。介護上の変化は次のようである。

 一番目の変化は食事である。本人にとって食事は第1の楽しみであった。食事は口から食べるものと思っていたが、胃瘻により、栄養剤を胃より投与することとなったことは大きなショックであった。毎日食事を作る手間は省けることにになったが、栄養剤を投与のための、1時間を掛けて、点滴の落ちて行くのを眺めているのは空しいものである。

 二番目の変化は入浴である。入浴も本人にとって食事に続く楽しみであった。毎日の入浴から、1回/週の訪問入浴ととなり、本人からすると不満だろうが、安心して大きな湯船にゆったりと入浴ができ、入浴そのものについては満足していると思う。入浴に関しては一人ではどうすることもできず、支援のお陰と思っている。

 三番目の変化はリハビリである。むしろ最大の変化かも知れない。朝目覚め、立ち上がり、歩いて椅子に座り、着替えをする。自分では食べられないが、与えた食事は全て食べる。自分一人では立ち上がることが出来ないが、誘導してやれば立ち上がり、歩くこともでき、玄関などの段差も、自力で、上り下りができ、デイサービスへ出掛けたり、散歩に出かけることができていた。これが立ち上がることや歩くことが全くできなくなったばかりでなく、手は硬直化し、動かせなくなり、足首も指先を伸ばした状態で固まってきている。寝たきりでいればいる程、硬直化が進むので少しでも和らげるべき、リハビリを行っている。最初は週1回であったが、2ヶ月後より週2回のリハビリを行っている。

 四番目は訪問看護である。入院前までは特に必要とせず、体調を崩せば、通院することで済んでいたが、寝たきりの状態では定期的に身体のケアが必要である。現在、内科的検診(体温、血圧、心音など)、胃瘻取り付け部分の傷などのメンテナンス、硬直化した指先などのケア、身体(特に下部)の清拭、衣服の交換などを行い、更に訪問医療機関との連絡係を行って貰っている。

 以上のように色々な機関の支援は我々のできない作業であり、非常に有難いことであるが、1週間168時間中僅か5時間程度であり、残りの160時間以上の見守り及び発生する介護全てを一人でやらねばならぬことになった。特に当初の2,3ヶ月間は可成り、痰が出ることから、殆ど毎日吸引器での痰取りが必要であった。初夏を迎える頃から、痰の出方も減り、体調も落ち着いてきたと同時に各機関との関わり方も馴染んできた。

【年末まで】
● 今後の目標
 退院時にケアマネージャーに話していたことは無理は承知の上で、「歩くことはとても無理だが、車椅子でデイサービスに通えるようにしたい。」と言ってきた。即ち、寝たきりのベット生活だけでなく、屋外の空気を吸わせてやることである。

● 夏場の環境
 介護支援のあり方についてやっと馴染んで来た頃に夏を迎えた。昨年の夏は近年にない猛暑続きで、夜も熱帯夜続きであった。寝たきりの状態で夏を迎えたのは初めてであり、室内の温度環境をどうするかが問題となった。クーラーの入れ放しも問題であり、昼間はクーラーと扇風機を併用することにした。従来夜間はクーラーなどを使用せず過ごしてきたが、今年の熱帯夜にはついていけず、扇風機で何とか過ごすことにした。

● 車椅子に乗るために
 寝たきりの状態から脱却し、車椅子に乗れるようにするためには、まずリハビリの強化である。このため、リハビリを週1回から2回に増やして貰った。また当初はリハビリもベット上でのマッサージで、最後にベットに座らせて貰う程度であったが、車椅子に座らせる時間を増やすことを含めて、車椅子をレンタルし、車椅子に乗せた状態で、リハビリを実施して貰うようになった。1時間のリハビリ中、車椅子に座らせていても、問題のないことが分かってきた。

● 胃瘻の機器管理
 胃瘻による栄養剤投与そのものは特に問題ないのだが、器具そのもの取り扱いに慣れてないことからトラブルが発生した。何時ものように栄養剤を接続し、点滴を始めようとするが、まったく動作しない。胃瘻部分に接続し、栄養剤容器との間を接続するチューブが詰まって供給できないようである。急遽、スペア用のチューブ(形状が異なる)に交換して、危機を脱し得たが、その後、予備用のチューブを購入することとなった。

 その後夏場になり、チューブを見ていると、透明のチューブが半透明になってくるのが分かった。原因は栄養剤がチューブ内部に付着しているためであることが分かってきた。栄養剤は常温で保存しているが、気温が低い時にはサラサラしていて問題はなかったが、夏場を迎え、気温が高くなると、栄養剤はドロドロになり、粘着性を増しチューブの内壁に栄養剤が付着し、半透明になっていたようである。こマメにチューブの清掃をする必要があることが分かってきた。チューブの清掃には単に水を流しただけでは不十分で、栄養剤などが付着したと思われる部分を手もみして、圧力を掛けた水で洗い流すことが必要であることが分かってきた。

 また、胃瘻は基本的に6ヶ月間隔で、交換を必要としている。8月に6ヶ月を迎えたため、8月末に交換を行った。胃瘻交換は入院など必要がなく、通院で内視鏡室にて、20分程で交換終了、帰宅後即昼食を摂らせることができた。

● 介護用衣服
退院後初めての散歩
 現在市販されている介護用衣服の一つとして寝間着があり、袖口が開口しクリップボタンで留めることができ、着せやすく便利に利用している。しかし、前記のように「車椅子で散歩に出かけたり、デイサービスに出かける」ためには、寝間着姿では出かけられず、それなりの介護用の衣服が必要となる。

 色々な介護関係者に妻に着せられるような介護用の服について尋ねると、簡単に市販されているという。しかし、インターネットやカタログを見るが、精々肌着レベルで、前開きでマジックボタンが付いたレベルである。即ち、袖に手を通せることが前提条件の衣服である。妻のように手が硬直化し、手を身体にくっつけている状態では袖に手を通すなど到底できない。下着ですらこの状態であり、介護に適した上着など到底ない。
 
 身体が車椅子に乗れるほどに快復しても、着せる物がなければどうしようもない。そこで洋服の仕立て屋さんと交渉し、既存のブラウス及び肌着を改修して貰うことができた。(詳細は別途)

● 体調の経緯
 8月末に胃瘻の交換も終わり9月に入り秋の訪れを感じられるかと思ったが、連日猛暑日が続いた。妻の体調は比較的安定で、顔の表情にも変化が出て来た。10月に入り思案していた7分袖のブラウスと半袖の肌着の改造をして貰った。そしてその改造した服を着せ、リハビリの日に待望の散歩に出て300m程散歩に出かけることができた。その後天候を睨みながら、距離を伸ばして500mほどの散歩を2回行い、安全に車椅子での外出が可能であることが確認できた。

 ここまで来れば後はデイサービスへ出かけることができるかどうかである。11月に入り体調も安定して来たことから、ケアマネージャーとも相談し、試行のため2時間ほどあるが、デイサービスに出かけた。送迎も含め無事過ごすことができ、念願のデイサービスへ出すことの第一歩を踏み出すことができた。12月に入り、気候は一転して寒さ到来。送迎時の寒さも気になったが、2回のデイサービス行きの試行をお願いした。デイサービスでの胃瘻対応も可能とのことで、滞在時間を3時間に伸ばし、昼食時の栄養剤投与もお願いすることにした。そして、全て順調に進めて貰えることができた。現状では春先までは余り無理をする必要もないので、月2回のペースでお願いする予定である。

【新年を迎えて】
 妻にとって1月は鬼門で、平成20年の「靴擦れ事件」また昨年の「誤嚥による肺炎」が1月に起きている。今年も注意をしていたが、事件が発生した。

 新年を迎え9日(水)はデイサービスへ試行中の3時間コースで出かけてきた。少し疲れた様子であるが、特に問題はなかった。第2木曜日の10日は3時間のヘルパー支援を受けて、定例の会合に出かけてきた。少し元気はないが定例のケアをして貰い、特に異常はなかった。

 6時前に夕食の栄養剤投与をするために準備を始め、枕元を見ると右頬の下が濡れている。水枕が漏れていたのかと思い金具を締め直し、濡れた場所を手入れしようと始めたところ、突然嘔吐が始まった。嘔吐物を口から吐き出すことなく、飲み込んでしまった。ベットの頭を高くし、Aクリニックに連絡し、即往診に来た貰うこととなった。暫く様子を見ていると顔が白くなりだし、息をしてない様子である。頭を揺すっても反応がない。急遽119番に電話し、救急車を依頼した。救急車よりも先にA先生の方が到着したので、急を告げ急いで上がって貰った。人工呼吸を始めたが、反応がなくい。一旦止め、今度は3回ほど胸を叩いた。するとハッと息を吹き返し、呼吸が始まった。

 その後、T大学病院に運ばれ、救急治療室で、頭部から腹部までのCT検査を始め、各種検査を受けた結果、脳の異常や肺炎の心配がないことが分かった。しかし、時々、(始めて聞く話だが)無呼吸の状態になることが分かった。

 翌日より一般病棟に移り、1週間様子を見ることになったが、11,12日の検査結果より、特別な治療も不要となり、連休にかかるため、13日の退院となった。

 13日に無事退院した。従来は殆ど声を発することはなかったのだが、昨年暮れ頃より、時々声(アアー、ウー、アーンなど)発するようになっていた。帰宅後普段のようにベットに寝かせた状態でいると、ゲップなのか、胃から押し上げてくるものなのか、声を発している様子で、その頻度が多くなってきた。そこでベットの頭の部分を45度位まで上げてやることで、少し落ち着き、声の発し方が減少した。その夜は比較的落ち着いて過ごせた。

 14日の昼間は時々声を発していたが、大きな問題はなく過ごした。夜は少し頭を高くした状態で、寝かせていたが、夜中に声を発することが頻発したので、頭を更に高くしたが、少し嘔吐し、口を閉ざしたままで、アー、アーを連発し、苦しそうにしていたので、鼻より吸引してやっと落ち着かせることができた。

 15日は朝から余り調子は良くなかった。訪問看護の日であり、11時看護士が来て通常通り、身体の清拭や着替えなどを行って貰った。この際、ベットは平らの状態で、且つ身体を左右に揺さぶられたためか、または胃からの圧迫のためか、可成り大きな声で「アー」「ウー」を連発していた。その後も時々声を発し、殆ど目を開けることなく、寝ていた。夜中に大きな「アーン」という声に目を覚まし、灯りを付けてみると寝て居らず、大きく口を開けて空気を吸い込み、一気に息を吐き出して、口を閉じる際に声を発していることが分かった。(大きなアクビのようである。)

 16日は朝食以降昨日とは異なり比較的元気で、ベットは頭を高くした状態であるが、余り声を発することもなく、落ち着いてきていた。看護士がAクリニックに状況報告をしてくれていたため、往診に来て頂き、解熱剤と抗生物質の処方箋を頂いた。また、下剤を飲ませていたことから、夕食前後に排便があり、少しスッキリしてきたようである。

 17日解熱剤と抗生物質の薬の効果もあったのか、今まで声を発していたのが嘘のように、声を発することが殆どなくなり、可成り、落ち着いてきた。現在は従来に比べて眠っている時間が長くなったようだが、時には眼を見開いて、ジッと眺めることもあり、可成り安定化してきている。一寸心配ではあったが、23日に思い切って今月2回目のデイサービスに行かせてみた。特に異常は認められなかった。

 何とか『鬼門の1月』は乗り切れたようである。油断は禁物だが、春に向けて更に元気を取り戻して呉れることを願っている。


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