プロローグ もう一つの物語(*1)
その岩山のふもとで馬の歩みを止めると、剣士はゆっくりと息を吐いた。
見上げる岩山は、黒々とした怪物のように、頭上にそびえ立っている。
おびえたように後ずさりする馬をなだめながら、大地に降り立つ。
ここから先は、馬に乗って行くわけにはいかない。
わずかに草が生え残っている平坦な土地に馬をつなぐ。泉もあるので、彼が戻ってくるまでの間、愛馬が飢えや渇きで苦しむ心配はあるまい。
だが、本当に戻って来られるのだろうか。
剣士は首を振って、その弱気な考えを追い出した。
自分は、人々の最後の望みなのだ。
山から吹き降ろす寒風が、剣士の黒い長髪を吹流しのようになびかせる。
身に着けた青黒い鎧は、無数の傷やへこみでおおわれ、これまで剣士が過ごしてきた戦いの歴史が刻み付けられているかのようだ。
剣士は、左腰に差した剛剣の柄を右手で握りしめた。自らの手で鍛え、ともに幾多の戦場を駆け抜け、いまや自分の腕と一体となっている愛剣だ。
そうしていると、騒いでいた心が落ち着いてくる。
たくましい足で大地を踏みしめ、精悍な顔を上げて、そそりたつごつごつとした岩山をにらみつけた。
その山の奥に、剣士が倒さねばならない相手がいる。
その山は、いつの頃からか“竜の巣”と呼ばれていた。
もともとは別の名前があったのだろうが、今はそれ以外の名前で呼ぶ者はいない。
その山には、凶暴で邪悪な竜が棲みついていたのだ。
竜がどこからやって来たのか、本当のところを知る者はいない。
地の底から湧き出たのだという者もいた。
はるかな空の彼方から舞い降りて来たという者もいた。
海を越えて、別の大陸からやって来たという者もいた。
人間が地上に現れる前の遠い昔から、時を超えて現れたという者もいた。
どこか異なる世界から迷い込んで来たのだという者もいた。
だが、そんなことは大きな問題ではなかった。
竜の存在そのものが、この国で暮らす人々には重大な問題だったのだ。
ある時は、巨大な翼を広げて天空を駆け、とどろく咆哮で人々をおびえさせた。
ある時は、口から吐き出す炎で、家々や畑を焼き尽くした。
ある時は、鱗におおわれた4つの足で、逃げまどう人々を踏み潰した。
その目を見てしまった者は、石と化してしまうとも言われていた。
その息を吐きかけられた大地は枯れ果て、草の一本も生えないと噂された。
竜が身じろぎすると大地が揺れ、咆え猛れば嵐を呼ぶと言われた。
竜はこの世でもっとも貴重な財宝を守っているのだという伝説も生まれた。
年に一度、汚れなき乙女を生贄として捧げれば、竜に襲われることはないという話がまことしやかに流布され、それは権力者に利用されることとなった。
数限りない乙女が、心得違いをした人間の手で誤った運命を与えられることとなったが、それらはすべて竜のせいにされた。
こうして、竜は時代を超えて、大きな存在となっていった。
竜を倒そうとする者は、いつの時代にもいた。
名声を求める者・・・。
おのれの力と勇気を試そうとする者・・・。
家族や恋人の仇を討とうとする者・・・。
財宝を狙って一攫千金を目指す者・・・。
腕自慢の騎士。抜け目のない盗賊。不思議な力を持つ魔法使い。復讐に燃える農夫。
竜は、それらの人々の挑戦をすべて退けた。
自分こそは最初に竜を倒した勇者となるのだという志を抱いて“竜の巣”に向かった人々は、誰一人として戻って来なかった。
そして――。
“竜の巣”へ向かう者は、年を追うに連れて、減っていった。
名声を求める者は、別の対象に目を向けるようになった。
力ある者、勇気ある者は、すべて大地に屍をさらした。
敵討ちは、無為なことだと認識されるようになり、身内の命を奪われた者はくちびるを噛み締めるしかなかった。
財宝よりも、命の方が大事だと思う者が多くなった。
そして、力も勇気も持たぬ多くの民草は、ただ身をひそめ、おのれの村が竜の怒りの対象にならぬよう祈りながら、不安な日々を過ごすしかなかった。
とある小国の、そんな村のひとつに、ひとりの男の子が生まれた。
常に竜の影におびえて暮らす村人たちを見ながら、それでも男の子はすくすくと育った。
畑仕事を手伝いながら、彼はたくましく育ち、村の子供たちの間でも腕自慢として一目置かれるようになった。
そして、成長するにつれ、彼の心にはひとつの決意が形作られていった。
自分は、竜を倒すために生まれてきたのだ。
その決意は周囲に語られることなく、一人前になると、彼は村を出た。
武者修行の旅だった。
諸国をめぐり、何人もの主君に仕え、剣の腕を磨いた。
剣士の名は周辺の国にとどろき渡り、戦場で名前を聞いただけで降伏する相手もいた。
だが、剣士は名声におぼれることなく、おのれを磨き続けた。
その間にも、竜に襲われた村、命を落とした人々の噂は途切れることがなかった。
一日も早く、竜を倒しに行きたい。
しかし、時満ちる前に立ち向かえば、命を無駄に捨てることになる。
はやる気持ちを抑え、剣士は心と技を鍛え続けた。
そして、時は至った。
踏みしめる岩のひとつひとつが、牙をむいて剣士の行く手を阻んでいるように見える。
一定の歩調を保ちつつ、剣士は細心の注意を払って、とがった岩が転がる道なき道を進んだ。
ここで不用意に足をくじいたりしたら、すべてが無に帰してしまう。
髪と同じような漆黒の瞳で周囲を見すえながら、均整のとれた肉体を一歩一歩、宿命に向けて運んでいく。
“竜の巣”には、これまで竜に挑み、そして敗れた人々の白骨が無数に積み重なっていると言われていた。
だが、剣士の目には、そのようなものは映らない。
生きて戻って伝える者がいないのだから、それは無責任な噂だったのだろう。
険しかった山道が、心なしか緩やかになってきた。
(フ・・・。いよいよか)
心を引き締めなおすと、剣士は全身の筋肉をほぐした。
ふと、目を上げ、宙をにらむ。
足元の大地が、かすかに震えている。
風のうなりのようなとどろきが、耳というよりも全身を通して感じられる。
剣の柄に手をかけ、剣士は最後の坂を登りきった。
そこは、断崖を背にした平坦な岩場になっている。
断崖には、太古の地殻変動で生じたのであろうか、巨大な亀裂が黒々と口を開けている。その大きさは家ほどもあり、一個分隊の騎士隊を飲み込んでしまえるほどだ。
「これこそが、まことの“竜の巣”か・・・」
剣士はつぶやいた。
そのつぶやきに、応えるかのように――。
地獄の底からわきあがってくるような重々しい足音が、亀裂の奥から響いてくる。
剣士は、腰の剛剣をすらりと引き抜き、両手で握って身構えた。
そして、竜が姿を現した。
身をくねらせて亀裂から出現した竜は、四肢を大地につけたままでも、剣士をはるかに越える上背があった。
虹色に輝く鱗で全身をおおわれ、背中からはつやつやと黒光りする翼が広がっている。
剣士の頭に匹敵する大きさの、黄金色に光る目が剣士を見すえる。剣士は真っ向からその視線を受け止めた。
(その目を見てしまった者は、石と化す・・・)
だが、剣士の体に異変は起こらない。
(フ・・・。やはり、あれはただの噂であったか)
竜は、首をそらし、雄叫びをあげた。
並みの戦士ならば、聞くだけで心が萎えてしまうような、すさまじい咆哮だ。
剣士は動じない。
「参る!」
剣士は気合いをこめて叫んだ。
鍛え上げた筋肉が剣を支え、たくましい両足が大地を蹴る。
長期戦は、明らかに不利だ。
剣士は、一撃に賭けるつもりだった。
そのために、半生を費やして編み出した、究極の剣技。
強靭な竜の鱗をも切り裂く、一撃必殺の剣。
竜の吐く、熱いブレスが襲う。
左右にステップを踏んでブレスの直撃を避けつつ、右上段に剣を振りかぶる。
竜の巨体が目前に迫る。
「アイン――!」
岩を蹴って宙に身を躍らせ、全体重をかけて剛剣をけさがけに振り下ろす。
「ツェル――!」
両膝を柔軟に使って着地の衝撃を和らげ、同時に両手首をひねって剣の角度を変える。
「――カンプ!」
着地した体が反発する勢いを利用して、剛剣を斜めになぎ上げる。
その勢いのまま、剣士は竜の後方へ着地した。
前方に投げ出されそうになったが踏みとどまり、体を反転させて剣を構えなおす。
その必要はなかった。
それは、さながら噴火する火山だった。
噴煙と溶岩の代わりに噴き出しているのは、真っ赤な竜の血潮だった。
虹色の鱗はVの字型に切り裂かれ、見事に胴体から切り離された竜の首は、岩の上にごろりと転がっていた。
少し遅れて、首を失った胴体が崩れるように倒れる。
剣士は、大きく息をつくと、竜の首に近づいた。
大きく見開かれたままの金色の瞳が、剣士を凝視している。
なぜか、そこには安らかな表情が浮かんでいるように思えた。
「終わった・・・」
剣士はつぶやいた。
予想していたような、高揚感も満足感も浮かんでこない。
ひと仕事を終えた後の、けだるい疲労感だけだ。
剣にこびりついた血をマントでぬぐい、鞘に収める。
竜のむくろに最後の一瞥をくれ、きびすを返そうとした剣士の目を、きらめきが射た。
血だまりの中に、なにか輝くものが転がっている。
まるで、竜の体内から転がり出たかのようだ。
剣士は手を伸ばし、それを拾い上げた。
大人のにぎりこぶしほどのそれは、虹色に輝く球形の宝石だった。
剣士は、それを手に“竜の巣”を後にした。
その日から、剣士の名は伝説となった。
竜が、倒された――。
その知らせは、またたく間に諸国を駆け巡った。
竜の恐怖におびえていた人々は、喜びにわき返った。子供から老人まで剣士の名を繰り返し呼び、勇者の名は津々浦々まで広がっていった。
歴史家はこぞって年代記に記し、吟遊詩人は様々に脚色された“勇者の竜退治の物語”を唄い、後世まで伝えた。
国王は“剣聖”の称号を贈り、偉業をたたえた。
各地の王室と貴族が剣士を召し抱えたがり、あらゆる地位と名誉と財宝が差し出された。
だが、剣士はそのすべてを断り、生まれ故郷の小国へ帰った。
彼が持ち帰った虹色の宝石は“竜の心臓”と呼ばれ、永くその国の守護神として祀られることになった。
多くの英雄や勇者と異なり、剣士は大勢の家族に囲まれて、幸せな余生を送った。
彼は、おのれの血筋を遺すことができたのだ。
そして、彼の血を継ぐ者は、世界各地に広がっていった。
伝説の勇者、剣聖グレイデルグ。
彼が編み出した究極の剣技もまた、その子孫の血の中に脈々と受け継がれ、息づいているという。
それを確かめたかったら、ヴェルンの図書館に収蔵された年代記をひもといてみるといい。(*2)