第9章 それぞれの風景
『職人通り』の朝は早い。
雑貨屋、食料品屋、道具屋など、日が昇る頃から店開きの準備を始め、人々が朝食を終える頃にはもう店を開けている。
呼び込みの声、職人が槌を振るう音、品定めをするおかみさんたちの笑い声、時おり錬金術工房から聞こえる爆発音・・・それらが渾然一体となって、ザールブルグでもっともにぎやかな場所と言われる『職人通り』は、いつも活気に満ち溢れていた。
そんな『職人通り』の真ん中に、酒場『飛翔亭』はあった。
もちろんかきいれ時は夜だが、店は午前中から開いている。酒や小料理を出すのはもちろんだが、それ以外に、冒険者たちに有料で情報を提供したり、仕事を斡旋したりすることも、『飛翔亭』の大きな役割だった。そんなわけで、『飛翔亭』には、仕事にあぶれた冒険者たちや非番の騎士隊員が、昼間から入り浸っているのだった。
「あら、お父さん、出かけるの?」
エプロンを外し、外出着に着替えた店主のディオを見て、娘のフレアが言った。
「ああ。ちょっとな。新しいゲルプワインが入荷したものだから・・・」
「あ、わかった。ハインツさんのところね。いってらっしゃい」
薄桃色の巻毛を青いリボンで束ね、愛らしい顔立ちのフレアは、微笑んで答えた。
ディオは、いかめしい顔つきで言う。
「帰るまで、店番を頼んだぞ」
そして、厳しい口調で言い添える。
「何度も言うようだが、客に甘い顔を見せるんじゃないぞ。馴れ馴れしくするなんて、もってのほかだ。なにしろ、客の中には、おまえ目当てで通ってくるやつもいるくらいなんだからな」
「はいはい、安心して」
手早くエプロンを身につけながら、フレアはにこやかに答える。心の中では父親の注意にいいかげんうんざりしているのだが、それを表に出さないのが、フレアの優しいところなのだろう。
ワインの壜が入った紙袋を抱えて、ディオは店の通用口から『職人通り』へ出る。すれ違う顔見知りの職人やおかみさんたちと軽く挨拶を交わしながら、ディオは中央広場の方へ進んでいった。
ザールブルグの中央広場は、真北にシグザール城、東にフローベル教会があり、西側は貴族の邸宅が立ち並ぶ屋敷町となっている。
南西にあたる『職人通り』から出てきたディオは、広場の南東角にこじんまりと建っている居酒屋に足を向けた。
『金の麦亭』という看板が下がっているが、店はまだ開店前のようだ。
軽く扉をノックして、ディオは店内に入った。
店は『飛翔亭』と同じく、それほど広くはない。丸テーブルがふたつと、一方の壁際にはカウンターが作りつけられている。出入り口の脇には一段高い段が作られているが、ここはいつも楽団が演奏している場所だ。
来訪者に気付いたのか、店の奥から店主のハインツが姿を現わした。
頬からあごにかけて豊かなひげをたくわえ、鋭い眼光は、70近くなっている今でも少しも衰えていない。もちろん、動作もかくしゃくたるものだ。
「どうした。珍しいな」
ここ数十年変わらない、張りのある声で言うと、ハインツはディオに椅子を勧める。
同じ冒険者相手の酒場を経営しているのだから、ふたりはライバル関係にあるといってもいいのだが、ディオもハインツもそのようなことは考えていない。『金の麦亭』には、何十年来というなじみ客がついており、『飛翔亭』は、逆に若い冒険者たちの溜まり場になっている。ふたつの酒場は共存共栄していると言ってよかった。もちろん、ハインツに比べれば若輩の(といっても40代半ばだが)ディオは、大先輩のハインツを尊敬し、ことあるごとにいろいろと相談をもちかけたりもしているのだった。
「実は、今日来たのは、これなんです」
と、ディオはワインの壜を取り出す。
「ドムハイトから来た交易商人が置いていったんですが、ちょっと味をみていただきたいんで・・・」
「ほう、どれどれ」
目を細めたハインツは壜を手に取り、ランプの灯にかざして、ラベルの文字を読み取る。
「ふむ・・・。シュワルツ=シュタインの12年ものか。本物なら、かなりの値打ちもんだが・・・」
つぶやくと、コルク抜きを使って手馴れた手つきで栓を抜く。
ワイングラスをふたつ取り出すと、3分の1程度まで、壜の黄色い液体を注ぐ。一方をディオに手渡す。
ハインツは、目を閉じると、ゆっくりと鼻の下でグラスを揺らし、まず香りを確かめた。
続いて、グラスのワインを半分ほど口に含み、ゆっくりと転がす。舌と上あご、下あご全体で味わっているかのようだ。
そして、最後にゆっくりと飲み下すと、余韻を確かめるかのように息を止め、ついで息をはき出した。
じろりとディオを見て、言う。
「残念だな。こいつはまがいもんだ。12年ものにしては、酸味が強すぎる。まあ、ゲルプワインとしては中の上ってところかな」
「そうですか・・・」
自分もワインを口に含んでいたディオは、残念そうに言う。数あるワインの中で、ディオがいちばん好きなのが、ゲルプワインなのだ。
「ま、店に出すのに支障はないだろうが、それなりの値で出すんだな」
重々しく言ったハインツは、一転、口調を変えて、
「そういえば、あんたらは、まだ仲たがいしたままなのかい」
それを聞いたディオの表情がこわばる。それを見て、ハインツも状況を理解したようだった。
「余計なお世話かも知れねえがな、ワインの好みでけんかして絶交なんて、大人気ないと思うぜ。クーゲルも、あんたの店には行きずらいんだろう、この店にはしょっちゅう顔を出すから、言ってはいるんだが・・・」
「はあ・・・。わかってはいるんですが、なかなか・・・」
「まあ、確かに酒の好みにはこだわりってものがあるからな。この商売を何十年もやってると、いろんなやつがいる。自分で酒を作ってきて、それを飲んで酔っ払って大暴れしたやつもいるしな・・・」
ハインツは遠くを見るような目つきになった。
「しかしな、こだわりって言っても、所詮はたかが酒だ。フレアちゃんのためにも、兄弟がいつまでも仲たがいしているというのは、良くないと思うぜ」
「はい・・・」
大先輩を前に、ディオは神妙だ。
「ま、なにかきっかけが必要なんだろうがな・・・。それはそうと」
と、ハインツは声をひそめた。
「ちょいと気になる情報があってな」
ディオも耳をそばだてる。眼鏡の奥の目が光った。
「騎士隊に、気にかかる動きがある。どうにもきなくさい。もしかすると、近いうちに国境あたりでひと騒動あるかも知れん・・・。嘆かわしいことだが・・・」
そして、ディオになにやら耳打ちする。ディオは目を見張った。
「すまんが、この情報は、めったなことでは口にしないでくれ。へたをすると大騒ぎになるからな」
「ええ、わかってます」
ディオは大きくうなずいた。
『金の麦亭』を出ると、暖かな日差しの中、落ち着いて平和なザールブルグの日常風景が広がっていた。
その中を、自分の店に戻っていくディオの足取りは、心なしか重いようだった。
同じ頃・・・。
フローベル教会のアルテナ像に向かって、一心に祈りを捧げているシスターがいた。
祈りが終わり、最後にアルテナの印を胸の前で切ると、シスターは顔を上げた。
祭壇の後ろから、クルト神父が下りてくる。微笑を浮かべ、シスターに手を差し伸べた。
「よく戻って来られましたね、シスター・エルザ」
エルザも微笑んで、修道服の裾を軽くつまんで持ち上げ、礼をした。
ザールブルグきっての名家マクスハイム家の末娘でありながら、10代の半ばで家を飛び出し、一時は怪盗デア・ヒメルとして世間を騒がせ、その後冒険者に転身した・・・という複雑な過去を持つエルザは、今は女神アルテナに帰依し、巡回修道女としてシグザール王国の辺境の村々を訪れて、病人の手当てをしたり孤児の面倒をみたりという仕事をこなしていたのである。
「いろいろと、ご苦労様でした。大変だったでしょう」
クルトはエルザを奥の部屋へいざなって、お茶を勧めた。
「いいえ、なんてことはありません。やりがいのある仕事ですし」
エルザは張りのある声で答え、お茶をすすった。
細身ではあるが、もともと冒険者をしており、身体は鍛えられていたため、村の周囲に出没する魔物を退治することすらやったという。
「そういえば、リリーが帰ってくるそうですね」
一息ついて、エルザは言った。取り出した手紙には、大きなユリの花が描かれている。
「私のところにも、案内は届いていますよ。彼女がどんな女性になっているのか、興味はつきませんね」
「あら、奥様がいらっしゃるのに、そんなことをおっしゃっていいんですか」
エルザがくすりと笑う。
クルトはわざとらしくせき払いをしてみせる。
「そうだ。紹介しておきましょう」
と、ふと思いついたようにクルトは奥へ声をかけた。
「失礼します」
おずおずと入ってきたのは、白の修道服に身を包んだ少女だった。年齢は、10代初めくらいだろうか。あどけない顔立ちに、大きな緑の瞳を見開いている。
「娘のミルカッセです」
と、クルトは紹介した。
「つい先日、洗礼を受けて、アルテナ様に奉仕することになったのですよ。エルザさんの話を聞けば、いろいろと勉強になることでしょう」
ミルカッセは、クルトに促されて席についたが、人見知りする性格なのだろうか、じっとうつむいている。
「・・・で、いかがでしたか、辺境の村の様子は?」
クルトが尋ねる。
エルザは、旅の様子を語った。今回は、シグザール王国の西側から北側に点在する村や町を回ってきたのだった。
「全体としては、いつもと変わらず、平穏でした。流行り病が発生している村もありましたが、持っていった薬で治せましたし・・・。そうそう、グランビル村では、レオさんに会いましたわ。手足がきかなくなったし、耳も遠くなっていましたけれど、まだ気持ちはしっかりされているようでした。セルク・クライの涌き水のおかげかもしれませんね」
いつのまにか、ミルカッセもエルザの話に熱中しているようだった。朝から晩まで畑を耕す村人たちの話、親がいなくともたくましく暮らす子供たち・・・。ミルカッセは目を丸くして、別世界の話を聞くように耳を傾けている。それを優しい目でながめ、クルトはお茶のお代わりを注ぐ。
「そういえば、ひとつ気になることがありました・・・」
エルザはやや表情を暗くして言った。
「特に北の方の村ですけれど、いつもの年に比べて、魔物に襲われる人が多いというのです。わたしも、街道を旅していて襲われたことがありました」
もちろん、得意の投げナイフを使って追い払ったことは言うまでもない。
「そうですか・・・。それは、聞き捨てならないことですね。後で、私の方から騎士隊へ報告しておきましょう」
クルトも顔をくもらせた。
ミルカッセが、不思議そうに尋ねた。
「あの・・・。“魔物”って、何ですか?」
「ああ、あなたは知らないのね。ええと、魔物っていうのはね・・・」
エルザは過去の冒険で出会った魔物や、噂で聞いたことがある魔物について、半ば誇張を交えて詳しくミルカッセに話して聞かせた。
おかげで、その後しばらく、ミルカッセは夜ひとりでトイレに行けなくなってしまったという。
礼拝堂に戻ったエルザは、片側の壁にもたれて立っている長身の女性に気付いた。
銀と青に色分けされた胸当ての他は黒ずくめで、青いマントをはおっている。腰にはレイピアを差し、長い赤い髪が肩から背中に流れ落ちている。
「なにか、ご用ですか? お祈りに来られたのですか?」
不審に思ったエルザが尋ねる。
女冒険者は、鋭い目でエルザを見やると、無言で首を横に振り、教会を出ていった。
エルザは、わけがわからない、というように肩をすくめた。
エルザは知らなかった。魔界の血を引く女騎士キルエリッヒ・ファグナーが、人並みはずれた聴力を持っていることを。そして、奥の間で語られたエルザの話を、礼拝堂から聴き取っていたことを。
キルエリッヒは、思いをめぐらしながら、石畳の道を足音高く『職人通り』へ向かった。
<ひとこと>
えっと、今回も“つなぎ”の回です。本当は、ハインツさんで1話、クルトさんで1話にする予定だったのですが、どうにもネタがまとまらないので、2人で1話にしてしまいました(これが“非常手段”)。エルザは、「ヘルクル」で言っていた通り、シスターになって僻地の村を巡回しているという設定です。でもマスクハイム家と完全に絶縁したわけでもないので、デア・ヒメルの回ではエリザベートとしてパーティに出席していたわけで。あと、レオじいちゃんはどうにも出演のさせようがなかったので、今回のようにさせていただきました(だって、生きてれば90だもん)。
それから、キリーさんが耳がいい、という設定は、勝手に決めたものです。魔人の血を引いてるんだから、それくらいの能力があってもおかしくないかな、と。