《顔見知り 良くも悪くも 子を守る》

 連れ合いがPTAの副会長をしていた頃には,私は副会長のご主人と呼ばれていました。入れ替わりで私が会長になったとき,連れ合いが会長の奥さんと呼ばれるようになるのにそう日数はかかりませんでした。いろんな行事で衆人環視の中に立つことによって,顔を覚えられてしまいました。道を歩いていると見知らぬ方から挨拶を頂くことが多くなってきました。
 狭い道を横断しようと歩道の前に一人立ったときのことです。信号は赤でしたが車は見えません。それまでの私なら赤信号を無視して渡っていたでしょう。そのときは信号のボタンを押して青信号になるのをむなしく待ちました。誰かに見られているというブレーキがかかったからです。
 子どもの頃,親に内緒で危ない冒険をしたとき,親には筒抜けであった経験があります。親には見られていないはずなのにと不思議でしたが,誰かが見かけて親ネットワークで知らせていたのでしょう。地域の子どもにとっては知らないよその大人でも,大人の方は子どもを知っていたのです。やがて見られているという思いが悪さにブレーキをかけるきっかけになっていきました。
 旅の恥は掻き捨てという悪弊は,自分が知られていないという思いこみに発しています。今の子どもたちは自分の住む地域で旅人になっています。親ネットワークがすっかり消滅しているからです。教育力とは親たちが子どもたちを見知っている地域にしか備わらないものです。
 この見られているという思いは悪へのブレーキになるだけではなく,安心感も与えてくれます。「子育て110番の家」といったステッカーは,地域が子どもたちを見守っているという意志の表明です。実際に子どもが事件に巻き込まれそうになって逃げ込んでくることは無いようで,トイレを借りに来るケースが多いと聞いています。子どもたちの頼れる家として定着しつつあるようです。
 
ホームページに戻ります Welcome to Bear's Home-Page (2000年06月11日号:No.10) 前号のコラムはこちらです 次号のコラムはこちらです