《切り取った 言葉は意味が 褪せてゆく》

 言葉は短くなることで記憶に残りますが,短くし過ぎると本来の意味が薄れてしまうことがあります。
 「沈黙は金なり。雄弁は銀なり」と言います。後半は忘れられています。日常生活上は雄弁が銀のように有用です。金は宝飾品のように日常の用には使われません。しかし,人間関係の上では光を受けて輝く金のように,相手の言葉を聞こうとする沈黙は価値あることになります。沈黙は閉じこもることではなくて,相手に懐を開くことを意味しているはずです。相手に言葉を譲る沈黙は人を大きくします。
 「腹八分に医者いらず。腹六分で老いを忘れる」と言います。高齢社会では忘れられている後半の方が大事です。ちなみに新しい知識を腹六分に重ねると,「味六分」と言うことができます。年を取ると味の感覚が衰えてきます。そのため濃い味付けになりがちです。嫁の味付けが薄いと感じてしまうのもそのためなのです。六分の薄味程度に押さえる自制が健康にはベターになります。
 「少年よ,大志を抱け。この年寄りのように」とクラーク博士は言いました。後半を落としたために,大志の大きさが分からなくなっています。お年寄りが残り少ない人生をかけた志を抱きます。生きている間に完成することはありませんが,孫の代になって花開くであろうことを願う志です。数世代にまたがるような大きな志が大志です。博士の言葉は元気あふれる若者は時代という大きな時間を視野に入れた志を持って欲しいという意味なのです。
 情報化社会のなかでたくさんの言葉を知るようになりましたが,知ることと分かることは違います。言葉が引き出す意味を自分の知識に重ねて学びのプロセスを経て知恵になります。学びには手がかりが欠かせません。言葉を短くすると意味が発散して分からなくなります。そこには思いこみだけが生まれ,正しい理解は遠ざかります。コミュニケーションも同じです。必要な言葉で済ますのではなくて,十分な言葉を添えなければなりません。
 
ホームページに戻ります Welcome to Bear's Home-Page (2000年06月18日号:No.11) 前号のコラムはこちらです 次号のコラムはこちらです