《文章は 読み手次第で 色変わる》

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 このコラムが100号を迎えました。(とはいえ,それはライターの感傷に過ぎません)。コラムを書くことになにがしかの思い入れを抱いているから,節目が新たな加速力を与えてくれます。200号を目指してがんばります。(という打ち上げ花火をあげたくなりますが,一瞬の光芒に終わります)。
 人の意見には常に陰の声がつきまといます。悪くいえば二枚舌ということです。熱くなる気持ちにどこかしら水を差す余裕を持つのは,冷めていると言えるでしょう。しかし多少の冷めた目を持っていないと,読み手を引きつける文章は書けません。文章のおもしろさとは,熱い思いと冷めた思いが対立するバランスの上にあるからです。
 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」。暗いトンネルから目映い銀世界への見事な転換です。読み進むうちに次は何が出てくるかという期待をかき立てることができたら,読むことが楽しくなります。そんな文章を見習いたいと思っています。
 さて,「国境の・・・」という文章をもう一度読んでみてください。「こっきょうの・・・」と読まれましたか? 実は日本には国境(こっきょう)にかかるようなトンネルはありません。国境とは「くにざかい」です。江戸時代の藩境の名残ですから,読み方に気をつけなければなりません。
 世界地理を学ぶと国境が出てきますし,日本地理では藩境は出てきません。国際化という時代背景が国境を越えるボーダーレスというイメージを印象づけています。国境という字は「こっきょう」とつながるのが自然です。しかし,小説「雪国」は国境を「くにざかい」と読める時代背景の素養を前提としています。同時代の文章を読む場合には作者と読者の背景が同じなので,言葉から紡ぐ情景の深さにそれほど違いは出てこないでしょう。しかし,人が経験している時代範囲は限られているので,体験を越える時代を補えるような知識,教養が求められます。
 文学的な文章を味わうには読み手もそれなりの時代考証に耐えられる材料を持っていなければなりません。「古典をひもとく素養」という言い方がありますが,言葉を読んで理解するとは意味の陰にある背景を同時に捕まえる大変な作業なのです。
 コラムにおける文章の分かりやすさは,読み手の背景に言葉という窓を通して入り込むことです。ライターの言葉のように見えて実は読者の言葉を拾い出していきます。読者の開いている窓とライターの言葉が共鳴したとき,背景の上に小さな花火が上がればいいなと願っています。(希望は半額?)。

(2002年02月24日号:No.100)