《喜びは 自分見守る 時を持つ》

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 2000年4月12日に第1号をアップロードして,今号で1000号になりました。この間毎週日曜日に更新し続けてきて,20年目に入っていることになります。1000号を達成したといった気持ちはありません。日日あれやこれやと生きている中で,日曜日には文章を書き上げるという営みをしているだけで,生活習慣のようなものです。号数を重ねることではなく,ただ今週も一つ書いたという思いだけです。書くことで何かを成し遂げようというものではありません。いい加減な取組なのです。
 暮らしや仕事の中で,周りの世界からの五感による入力を受けて,自分なりに反応している様を言葉にして再確認をしている,いわば現状確認のつもりです。継続していると記録になりますが,過去の号を読み返すことはしていません。生きるというのは,今でしかないからです。前はこうであったのに今はこう変わったという変遷に興味はありません。物事の把握が深くなったという成熟の様子を推し量るといった評価にも関心はありません。成熟の度合いを知ったところで,今の状況が変わるはずもないからです。
 一週間に一回,なんでもいいから物事について考える時間を持つ,その習慣の積み重ねであり,中身は日日の食事と同じで,そのとき限りのものです。今号が1000号であるという数字が訴えてくることに対して,自分はどのような反応をしているのか,文字で表現という出力を試みています。文章にするという所作によって,今の自分を見つめる視点をああでもないこうでもないと試みることができます。ただ考えるだけでは整理がつきません。文章の段落によって,思考の展開や拡大がもたらされることを楽しんでいます。
 1000号ということに拘れば,「長い間よく飽きもせずに続けてこられたものだ」と感慨を述べるのが普通でしょう。ただ,書き続けるという気持ちが無かったことに気付いてしまうと,「長い間」という言葉は出て来ないのです。一般的な流れに沿って書き出したとしても,それは今の気分を表現するものではないので,後が続かなくなり,文章として書き続けることはできなくなります。もし他の誰かのことであれば,1000号に到達したことを「継続は力なり」という言葉に結びつけて,称えることになるでしょう。だからといって,自分をほめてみてもしようがありません。
 これからも書き続けていきますが,号という番号はあるものの,番号には確たる意味はありません。ファイルの重複を避けるために付与される記号です。毎週,自分は何を感じてどのように思っているのか,言葉を通して,自己チェックをしていきます。

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(2019年05月26号:No.1000)