家庭の窓
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地元の新聞の記者が書いている小欄があります。テレビ番組に子どものおつかい挑戦を見守るものがありますが,ほほえましい気持ちにさせてくれるので好きだということです。海外では違っているようで,日本のテレビ番組に対する外国人の反応を取り上げた番組では,このおつかい番組が否定的意見の一番多かったことに意外だったという感想が書かれていました。幼い子を一人で出歩かせることなどあり得ないということです。
最近の川崎での児童殺傷事件のような子どもが犠牲になる事故が続いていると,安全な国で子どもを出歩かせているという状況は,考え直す必要があるのかもしれません。安全な環境であるからほほえましいのですが,危険な環境であるならあり得ないということになります。安全な日常には危険な非日常が隣り合わせているという警戒が皆無ではないかと反省しなければなりません。人を信じなければ社会生活はできませんが,信じ切ってしまうのも現実的ではありません。
日常世界で隣り合う,行き交う人をどのように思っているのか,考えているのでしょうか。見ず知らずの人には何の関わりを持つ必要もないので,社会的な最低限の礼儀だけを気遣っています。ぶつからないように避けるといったことなどです。また,何の恨みつらみもないので危害を加える気もなく,すれ違っていくだけです。こちらがそうなので,行き交う人も皆同じであろうと何となく思い込んで,警戒することもありません。自分とは違った邪悪なねらいを秘めているなどとは,思いも及びません。
しかし,人は皆違います。邪悪な思いを抱えている人もいるかもしれない,そういう疑心も必要な知恵であるとして,人を見たら泥棒と思えという言葉が伝えられています。もちろん,皆が泥棒であると思ってしまうと,世間は成り立たなくなります。不用心であることを避ければいいのです。無防備であるとつけ込まれます。つけ込まれるというのは,邪悪な振る舞いを招き寄せるということにもなります。隙を見せないという用心,それが不幸な目に合わないためにできる自衛の一歩になります。自衛はした方がいいのです。
人がどのように不幸な事件を起こすようになるのか,その成り行きを解明し完全に防御することは不可能です。事件を起こせない社会を構築する努力を続けながら,一方では事件に巻き込まれない用心を怠らないようにするしかありません。危険を察知する感性と,危険を回避する逃げ足,自衛についてできることを考えて備えるようにしたいと思っています。
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