家庭の窓
|
ある程度長く生きてきたせいなのか,何か違うなという感じがしてしようがありません。世間の雰囲気が肌に馴染まなくなっています。こんなはずではないのではと,自問しても,思った答は出てきません。どうして訳の分からない事件が起こるのでしょう。どうして職業人が愚かなごまかしをして平気なのでしょう。どうして国の動きに関わる任にあるものが幼稚な言動を恥じないのでしょう。どうして若者が人の交わりから学ぶことをしなくなったのでしょう。どうして大人たちは隣人への関心を持とうとしなくなったのでしょう。どうして食べ物が余るほど無駄にして平気なのでしょう。どうしてわがままを押しつけていることに気付かずに人に当たり散らすのでしょう。
幼い頃に目指していた社会になっているはずなのに,そうではなかったということでしょうか。かつて夢見ていた21世紀になったはずなのに,あの未来は一体どこにあるのでしょうか。人は環境によって育てられます。時代の歩みが進むにつれて,そこで生きている人は知らないままに変わっていきます。その行き先を見極めて,時代のかすかな偏向を修復できる大人が居なかったのでしょうか。同時代人たちがリーダーとして選んだ人たちは我が事オンリーであることを主張しています。それは偏向を見極める座標を放棄することになると怖れなければならないのに,その尊い賢明さを欠落しているのではと危ぶまれます。欲望を独り占めしようとする偏狭さがこれほどまでに感染しているとは,もう悲劇でしかありません。
手軽で便利な社会になるはずが,その目標に行き詰まりが見えてきて,その陰で環境を変質している兆しに悩まされています。地球温暖化や気候変動,マイクロプラスティック問題などです。栄枯盛衰という言葉を重ねると,豊かさという栄えは枯渇へ転回するのが自然法則であるという習いに行き着きます。そこまでを見届ける時間は持ち合わせていませんが,それは個人的には幸運だと想っておくことにします。少しの間だけ通人ぶってみました。
|
|
|