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 ハンセン病の元患者の家族への差別に関する判決を報道する中で,記者として向き合った事実が語られている記事が目にとまりました。それは,「元患者」という呼び方をすることについての考え方でした。
 治癒した人にどうしてわざわざ元患者という書き方をするのかという疑問です。事故の被害に遭って治癒した人をわざわざ元被害者と言うかという反論です。元患者というから,いつまでも悪いイメージが払拭されずに,差別され続けることになっているのではないかという指摘です。元ヤクザと言っているのと同じ感覚では無いかという危惧でしょうか。そこで出てくるのが,ではどう表現すればいいのかという問題です。例えば,入所している園の名前といった案などが出ているようです。
 ところが,元患者という言い方をすべきであると,当事者の方から声があがったのだそうです。元患者と言わなくなると,今も残っている差別に対する解消運動が進まないというのです。元患者という言い方が,ごく当たり前に自然にされなくなるのならいいいでしょう。でも,今の状況のままで,元患者という差別の表現を消し去るというのは,問題の隠蔽に等しいというのです。不適切な表現をあえて意識し続けることで,意識の変容を進めていくことができるということです。
 どちらの考え方も,そのように指摘されると,そういうこともあるなと思います。どちらにも決めかねる場合は,現状のままにというのが大人の計らいです。機が熟すのを待つということでしょう。人が決断できないときは,成り行きにお任せする,なるようになっていくのだということでしょうか。その大事な成り行きに,人の意図的な関与がどの程度の効果を持つか,やってみてはということです。お手並み拝見という傍観者になっていいのですか,その問いかけを受け止めなければなりません。
 在ってはいけないことは見えないように隠しておけばいい,変に見せるからするようになるという考え方があります。テレビなどで,残酷なシーンを排除するということになります。一方で,してはいけないことを見聞きしていないと,何がいけないことか分からなくなって,抑制が効かなくなるという考え方もあります。人の振り見て我が振り直せ,ということです。
 今の情報社会では,先人の愚かな振る舞いのあらゆる情報が,図書館から溢れ出て,端末によって手元に届くことが可能です。現実の悪い見本でなくても,情報としての悪い見本は捨てるほどあります。そこから学べば事足りるのですが,学びはその気が無ければ動きません。実際に痛みを感じてこそ,学ぶ意志が芽生えます。そのためには,身近という現実の中に,愚かな振る舞いを感じるキーワードをおいておくべきでしょう。

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(2019年07月28日:No.1009)