《喜びは 有無に拘る 無理を止め》

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 このところの世間は,とてもつきあいにくいと感じます。京アニの惨事を仕掛けた犯人の過激な思慮,最多と報じられている児童虐待を起こしてしまう親の思慮,議員らしくない言動を強弁する代議士の思慮,我が国オンリーを強弁する代表を選ぶ市民の思慮,テレビ報道の内容が局によって代わり映えしないのがよいとするディレクターの思慮,歌手や芸人の方々がいつの間にかMCに変身して番組を差配して当たり前という思慮,総じて程の良さが失われています。イケイケという暴走に見えてしまいます。
 アメリカのバークリー市議会では,ジェンダー問題の意識の高まりを受けて,公文書から性別を特定する表現を排除しようと用語を置き換える条例を可決したそうです。マンホールはメンテナンスホールに。マンという言葉を避けたのです。マンパワーはワークフォースに。ポリスマンやポリスウーマンはポリスオフィサーに。He,Sheの代名詞も使用を避ける。カリフォルニア州では,州知事夫人もファーストレディからファースト・パートナーに代えているようです。そこまでしなくてもと思いつつ,際限のないことを危惧します。
 情報社会になって,世界が一つになりました。意識の上では,とてつもない広い生活圏にいるようです。広大な世間の常識が一色に染まっていきます。情報化とは均一化を促します。かつてのように地域社会が狭い中で暮らしていた頃は,地域での色がそれぞれあって,広い世間では多様化が存在していました。程よいバランスが保たれるシステムになっていました。今では世界がオンリーワンとなっていくしかないシステムになっています。皆が一色になっている,それも違う他者の存在を許す余裕のないまっしぐらな怖い社会です。
 世間の規模が変わると人も変わります。大きな集団になると,つきあう人の選択が豊かになるために,自分と気の合う人だけを選ぶことができます。SNSでつながっている人たちです。「いいね」でつながっている人の間では,関心の共有ができて,一体感を満喫できているという錯覚に陥ります。一方で、地域社会のように身近な集団では,つきあう人を選べないので、気の合う人ばかりとはなりません。いろんな人がいるという現実の中で,折り合いをつけていくという程良さを発揮せざるを得ません。社会人はそこで育まれます。
 自分の思い通り,感じたままでいけるというのは,実のところ,世間に染まっている,染められている、染めあっている結果です。物事に対する意識が易きに付いているから,指示されて共感されています。これでいいのかという立ち止まって振り返る暇を与えられないまま,世間の大きなうねりに流されていることに気がついていないのでしょうか。
 今度の選挙での投票率が50%以下になりました。棄権した人からは,選挙に行っても何も変わらないという声が聞かれます。大きな世間対個の自分という対立を言っているのでしょうが,自分が流されているだけで,最も身近な人たちという世間とのつながりを忌避していることに気付いていません。自分が地域を幾ばくかでも担っているという自覚が持てないのです。世間に染まっていながら,世間とは無縁な自分という意識は,とても淋しいものではないのでしょうか。
 今の社会であれこれの問題や不都合なことが起こっている背景に,地域社会の崩壊といった人付き合いの変容が語られます。情報社会になって,社会がAI化していく一方で,人の存在は人としての結びつきが破壊され,部品化と均一化が進んでいっているのでしょう。つまり,人としての成長をするシステムが破壊されて,社会というシステムがコンピューターの思惑通りに発展しているように見えます。
 人の思考や判断が,1か0か,イエスかノーか,好きか嫌いか,良いか悪いか,するかしないか,すべてディジタル化しているのが現状です。どちらでもない状況を無くすことがよいという価値観に支配されていること,それがAI化です。暑いか寒いかではなく,丁度よいという状態認識を失っては,生きづらくなるばかりです。「普通」それは,どちらでもない状態であり,そこで人は安寧に生きていくことができることを忘れないことです。

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(2019年08月04日:No.1010)