家庭の窓
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世間の流れについて行けなくなっています。
9月なのに,おせち料理セットの予約案内が届けられてきました。早く予約すれば割引されますというメリットを突きつけてのお誘いです。限られた数の消費者なので,占有率をできるだけ増やすための,やむにやまれない方策であることは推察できますが,受け取る方にすればあまりに早すぎないかと驚かされます。季節ものなので,実感とあまりにかけ離れていると,違和感があります。付いていくのに疲れます。
紙上やテレビ報道の中で,人を殺める事件が途切れなく起こっています。もちろん,情報は実際に事件が存在していることに直結しています。作り話ではありません。それぞれにやむにやまれない事情があるものもあるかもしれませんが,大部分は邪悪な背景がもたらすものでしょう。人に危害を加えることで,ことが成就するという短絡さは理解できません。当事者でない者に何が分かるかという,ありふれた台詞そのままに,とてもついて行けません。
それなりの立場にある者が表現の自由であるからと詭弁を用いて,言いたい放題の無礼を働いています。言論における節度が蹴飛ばされています。言いたいことがあるのは認めますが,相手に強要する表現が失礼であるという抑制の喪失が不気味です。最近話題になったあおり運転での罵倒も,相手にとっては理不尽であるという配慮を欠落しているという面で,社会人としての資質が備わっていません。自分の言っていることが通じるかどうかは相手に任せるという対論の基本が消えている状況には,ついていけません。
高齢者に電話をかけて,安全の確認や確保を理由にして近づき,キャッシュカードをすり替えて搾取するというコソ泥が横行しています。高齢者は信頼を基本とする世間を作り上げてきました。電話の向こうには信頼できる人がいるという前提が世間にはありました。ところが,若い世代にとっては,世間とは信頼を逆に利用するところと思い込んでいるようです。世間に対する認識が逆転しています。コソ泥の被害があまりに大きい状況に,世間の信頼がいとも簡単に低下させられている事態に,ついて行けません。
あれやこれやの情報が飛び込んできて,世間の実情が突きつけられます。情報はイメージを作り上げていきます。今の日本は,というイメージです。とてつもなく広大な範囲です。個人として生活をしている実世間はグーンと狭くなります。マスコミ情報ではなく,いわゆる顔見知りの口コミのネットワークの中では,平凡な暮らしが営まれています。上記の出来事はよそ事なのです。イメージとしての世間と,暮らしの実世間とは,あまりに違いすぎます。どちらが本当の世間なのか,知りたいものです。
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