《喜びは 背中の人が 振り向いて》

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 幼稚園の園長さんと話す機会がありました。話の流れの中で,保護者会がつぶれたというか,無くなってしまったということを聞きました。代表者になり手がいないということでした。そのことを聞いて,思い出しました。数日前の新聞でも,PTAの任意加入性が取り上げられていました。役員になり手がいなくて,くじ引きなどで強制的に押しつけられていることが忌避されているようです。その矛先が従来のPTA活動に意味が見いだせないという点に向かっています。活動が時代に合わなければ,改良すればいいことであって,組織そのものを無意味とするのには無理があります。
 強制されることがいけないこと,任意であるべきであるという流れになっています。保護者会,PTAの活動に参加する,しないは個人の選択に任せるべきである,個人の自由であるという権利主張と考えることができます。この主張をする人は,要は自分は参加するつもりはないと言っているのです。学校と連携している組織だけではなく,地域とつながっている子ども会活動に対しても,加入させないという保護者がおられるようです。それが今の風潮なのでしょう。
 教育は,子どもにとって権利であり,保護者には義務です。子どもにとって必要な教育は,学校教育だけではありません。いわゆる社会教育も子どもの成長には不可欠なものです。その部分は社会,すなわち保護者を含む社会人が為すべき教育なのです。親が個人的に我が子に対して行う家庭教育とは違って,大人たちが子どもたちに対して行う教育が社会教育です。そのための組織が保護者会,PTA,子ども会育成会等です。
 保護者には子どもに対する教育を行わなければならない義務があります。義務ですから,保護者は強制されていることになります。するしないの選択はないのです。それでも,皆が我が子に対して社会教育をしてくれているのに,あえて自分はごめんだという権利の選択をすることにすると,子どもは何を学んでいくことでしょう。
 広い土地を碁盤の目状に区画して,それぞれを所有する権利が付与されます。ここは私の土地です。ところが住めません。出かけるときは,他人の土地を通らなければならないからです。私有地だから通るなと言われます。実際には,それぞれの区画からある程度の土地を強制的に義務として差し引いて共有する道路を作ります。それが社会という町になります。権利と義務を引き受けることで,お互いに生き合うことが可能になります。かつてのお互い様という了解,それは義務を引き受ける覚悟だったのです。
 日頃から皆には何かとお世話になっていると感謝をし,そのお返しができるならと,諸般の事情をやりくりして,皆のお世話をさせていただく機会を得たことを素直に受け止めよう,大方の人はそういう心積もりで対処しています。誰かがしなければならないことは誰かがすればいいので,それは私ではない,その背中は悲しいものです。

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(2019年10月06日:No.1019)