家庭の窓
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ある女史の講演を聴く機会がありました。男は過去に,女は未来に,話題が動いていくそうです。集まって話していると,男はあれはどうだったとか,これはこうしたかったとか,済んでしまったことばかりだそうです。それに対して,女は今度どこに食べに行こうかとか,そのために積み立てはいくらにしようとか,先に先に進んでいくらしいのです。
聞かされていると,確かにそうだなと思わされます。そこで話の続きは上の空に聞き流して,ちょっと待てよと考えれば,そうとばかりも言えないことに思い当たるはずです。しかし話の続きをついつい追いかけて聞いてしまうので,一つの方向に結論が導き出されていきます。この誘導が話術です。同じことは文章を読む場合にも当てはまります。ただ,読むときはいつでも簡単に目を逸らして一時停止をすることができます。誘導するためには,相当な文章力が必要になります。
先ほどの男女の話題の特色ですが,男の目から見ると,女の方が過去にこだわっているように思っています。古い話をいつまでも蒸し返しますし,例えば結婚当初の約束などをちくりちくりと出してきます。でも考えてみると,これは男女間の話の場合です。女だけの場では事情は違うのでしょうが,よく分かりません。男の場合も過去にこだわっているように見えて,それは明日のためなのです。
話を進めるとき,あることを前提に論陣を張りますが,そのあることがどの程度確かなことかという思慮が必要です。よくあることか,時々あることか,どこでもあるのか,特定の場でしかないことか,という背景を計算に入れておかなければなりません。そうしないと話が進むほどにほころびが広がっていきます。
コメンテイターと呼ばれる人が口にする「日本人は・・・」という結論は,ほとんど説得力がありません。一言で言い尽くせるほど人間や社会は単純ではないことを知っていながら,話す方も聞く方も実のところは誰も知り得ないから,一事が万事という四捨五入ならぬ切り上げが遂行されても仕方がないと諦めています。規模の大きな話に広げてしまえば,乱暴な近似が採用されます。
このコラムのような文章では,そこまでの曖昧さは命取りです。物事の一面を切り取ることが目的ですから,自ずから視野は限定されます。虫眼鏡的な目で物事の背景をくっきりと描き出すおもしろさが身上になります。例えば,「男とはいつまでも子どもである」という結論に微かな同意を得ようとすれば,そういう面も確かにあるという証拠を例示する必要があります。単なる切り上げ論法ではなくて,一捨二入程度の近似ができたら,コラムとしては上出来でしょう。
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