《喜びは 解けない問に 出会うこと》

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 あなたは自分を利口だと思いますか? ケンブリッジ大学の入試での口頭試問だそうです。この問題に正答しようとするのは難しい,と新聞のコラムが書き出されています。「いいえ」と答えれば「名門大学で学ぶ資格なし」と判定されるかもしれず,「はい」と答えれば「自分で自分を利口と考えるほど愚かなやつ」と思われそうだ,と続いています。
 試問であるから,イエスかノーかを答えなければならないとすると,答えに窮するでしょう。試問の意図がはかりかねるからです。試問する側には正解はありません。あなたが自分を利口だと思っても思わなくても,それはあなたの勝手であり,試問する側はただ回答を待っているだけです。その回答をどう受け取るかは,試問した側の思惑です。コラム氏が懸念することが起こりえます。
 試問する側は,それほど単純な判断をしているはずがありません。回答はイエスでもノーデもいいのです。その解答を聞いて,あなたはなぜそう思うのですかと,理由が問われるでしょう。自分の思いを論理的に説明できるかどうか,判断の基準がどこに置かれているか,それを聞き出す導入でしかありません。何を以て利口と言えるのか,自分を客観視できているのか,思考する力が問われています。自分が利口であるかどうか,そんな疑問を持ったことがあるのかないのか,それも知りたいことの一つになります。
 テレビではクイズ番組が流行っているという状況です。そこでは正解が問われます。クイズですから当然ですが,そのパターンが当たり前に定着すると困ります。この世の中のあらゆることはすべて解けてしまっていて,正解しかないと錯覚してしまうからです。現役の東大生が絡んでくると,少しは考える場面もありますが,主として隠されたカギを見つける程度の推察力で済みます。小学校から大学まで,問題といえば解答できるものということに慣らされています。
 この正解指向は,社会事象に対しても幅をきかせています。些細な不都合な事象に対して極論が押し寄せます。匿名者の思考が正解ならぬ正義の衣を纏って,単純化されてしまっています。正誤しかないのと同じように,正邪しかないという思考停止が起こっています。シロかクロか,灰色はあり得ないという思い込みが,世情をギスギスしたものにしているのではと感じる余裕を持ってほしいものです。
 算数の計算で,足し算は答を出しやすく,気持ちもスッキリとします。引き算になると,3−5=?のように,引く方が引かれる方より大きくなると,不足するという困った状況に追い込まれて,スッキリしません。かけ算はどのように掛けても,答えが出てくるので,落ち着いて計算できます。割り算になると,10÷3=?のように,割り切れないこともあって,スッキリとしないので嫌がられます。割り切れない方が普通であると,スッキリしないことを受け入れる,それが賢さの入口です。

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(2019年11月17日:No.1025)