《喜びは 寄り添う人が 側にいて》

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 学生と関わりのある人が,驚きを表明しています。バス待ちの学生さんたちが,バスがまだ満員にならないのに乗車しないというのです。次のバスがすぐ後ろに控えているわけでもありません。詰めれば十分に乗れるのに,あっさりそのバスを見送ってしまいます。座れないからという理由だけではないようです。できるときにできることをするという感覚で生きている者には,合点がいかないようです。
 学生さんにその理由を書き出してもらったそうです。「先生や親の世代は時は金なり。僕らは違う」「自分の空間,パーソナルスペースが大切」「ソロ空間がいいです」・・・。かつて,ソニーのヘッドフォンステレオが若い世代に受け入れられたとき,社会学者が「若者が屋外・公共の場に透明なバリアー空間=『ひとり空間』を構築し始めた」と指摘していたそうです。そう言われるとそうだなという感想を抱きます。
 このエピソードを敷衍すると,社会的な活動における個人主義の傾向に辿り着きます。人間関係における寄り添いや触れ合いといった言葉が,社会的な課題に関わる領域では頻繁に目に付きます。触れ合いという言葉のイメージは,人同士が触れることですから,個人空間という隔離とは真逆の状況になります。触れ合いを拒否するという意思表示はしていない,ただ一人でいたいだけというのかもしれません。その若者が一方でスマホやイヤホンで他者とのつながりにしがみついています。触れ合わないつながりです。
 人の温もり,それは接触という状況が前提となります。隔離した間柄では,伝わらないのです。温もりという熱は,形態は振動であり,他方に振動が伝わるためには,つながっていなければなりません。確かに音という振動は離れていても伝わって聞こえます。間にある空気が振動して伝えているからです。しかし人の温もりは空気の振動では伝えきれません。触れあうということが必然です。結果として,子どもや高齢者や障がい者,社会的少数者が温もりを失って苦しんでいく状況が進行しています。冷えているのです。
 寄り添う人がいないと,人は冷えていきます。冷えると身体を温めるためにブルブルと筋肉を震わせて,熱を生み出そうとします。同じように,心も冷えてくると,寄り添ってくれる人の震える心と触れ合えればいいのですが,そういう人がいないと,気持ちをカッカと燃え上がらせるしかありません。些細なことでキレるという暴発です。怒りは熱くなる手段としてお手軽です。最近,あおり運転やさまざまなハラスメント行為が蔓延るようになってきたのは,触れあうことを拒否している副作用と見做すことができます。

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(2019年11月24日:No.1026)