《喜びは 初見の言葉 出会うとき》

Welcome to Bear's Home-Page
ホームページに戻ります

家庭の窓にリンクします! 家庭の窓


 離見の見という言葉があるそうです。能のサイトで,「世阿弥が能楽論書「花鏡」で述べた言葉。演者が自らの身体を離れた客観的な目線をもち、あらゆる方向から自身の演技を見る意識のこと。反対に、自己中心的な狭い見方は「我見(がけん)」といい、これによって自己満足に陥ることを厳しく戒めている。現在でも全ての演技にあてはまることとして演者に強く意識されている」と解説されています。
 世阿弥と言えば,「初心忘るべからず」という言葉しか知りませんでした。いい加減な知識を思い知らされます。知らない言葉を拾ったとき,自らの情報ファイルに隙間があることに気がつきます。自らを他者とまでは言わずとも,もう一人の自分の目線で眺めることも必要です。客観的な目線と言っても,それがなんであるかを理解していないと使えません。能の立ち居振る舞いを見ている観客が,どのように表現をしているか,その言葉を手がかりに判断をすることになります。
 どのように見えるかということと,どのように見せようとしているかを,つきあわせるには,振りを見よう見まねで真似するだけではなく,その意味を言葉で表現する必要があります。言葉にならない深遠な意味合いもありますが,そこに向かう道しるべを建てることはできるはずです。
 情報が飛び交うようになった現在,とても変わったことがあります。かつては,情報を発信する人は少なく,受信する人が大部分でした。マスコミという言葉があるように,大量の情報が一部の報道機関から発信され,視聴者や読者という大勢の人が受け取っていました。つまり,目と耳を使うばかりの人が主流でした。ところが,最近は個人的な発信機能を誰もが手に入れたお陰で,誰もが発信者になっています。発信の礼儀を会得することもなく,我見という我が見識を吐きだしています。自分に向けて書いています。
 人に対する誹謗中傷を仲間内のおしゃべりと同じ感覚でネットに発信すると,それは限定された伝達では済まなくて,極端に言えば地球上に永遠に残り続けます。かつての大新聞による情報の広がりと寿命の限界はありません。離見をすれば,世界中の人から見られているという状況です。想像すれば恐ろしいことです。炎上という現象はごく当たり前に起こるものになっています。見られる,読まれるという舞台の規模を,落ち着いて想像しなければなりません。
 人の振り見て我が振り直す,という言葉で自らの言動をチェックしています。芸能のように舞台に立つという見られる立場になることはできないので,緊張感はありませんが,世間に見られる良い例と悪い例を見極めて,自分はどうなのかと考えてみることぐらいはできます。

ご意見・ご感想はこちらへ

(2019年12月01日:No.1027)