《喜びは 時の流れが 我が身にも》

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 令和元年という年が終わろうとしています。これまでに重ねてきた1年とそれほど変わっていることはありません。またいつもの1年が過ぎていくのを見ているのではなく,一緒に新たな年に向かって流されていきます。私は常に今にしか生きていられないからです。行く川の流れは絶えずして〜,と岸辺でのんびりと時を離れて眺めていたいものです。
 車窓を後ろに流れ去っていく風景のように,私がそこにいた今年1年の光景が思い出という流れになって過ぎ去っていきます。ごく日常の想定内のことは印象に残こらないために記憶の取っ手が付いていません。喜怒哀楽という節目を呼び起こすことがあれば,それは想定外のこととなって,思い起こすことができます。決まったパターンの暮らしを繰り返していると,毎日が同じになって見えなくなります。
 今年も秋の青空に伸びているはずの皇帝ダリアの花はありませんでした。途中までいつものように伸びていたのですが,気候の変動に合わせた面倒をみてやれなくて,萎れてしまいました。植生に素人であったことを詫びるという負の感慨を印象づけられました。その他には,身近に居てくれた高齢の方たちとの突然の別れもありました。そのつながりあって,年賀ハガキを出せないという状況が今共に連れ添うことになっています。
 日日の単純な繰り返しの中で,わずかな暇を見つけて読書で過ごすと,「ほう」といった心地よい刺激を味わうことがあります。それは情報の記憶となって残り,今の私の中にあります。読書という体験は過ぎ去っていきますが,そこから摘み取った知識は携行していくことができます。読書の前と後で,私は変わっていくことになります。旧い私は去って行き,新しい私が歩き出していることになります。
 旧年が新年に変わっていきますが,そこに寄り添っている私も,旧い私から新しい私に共に変わっていっていることになります。私は今の私でしかありません。時の流れの中で,同じ私ではないということには気付かないものです。私は変わらず,周りが過ぎ去っていくという錯覚に浸るのも,この時期の楽しみ方ですが,私も変わっていくということを意識して過ごすことも一興です。ただ人は自分を見ることが不可能です。身の周りの風景だけしか見えません。変わっていく私を誰が見ていてくれるのでしょう。

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(2019年12月29日:No.1031)