家庭の窓
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人には,第一印象というか,見た目で判断するというか,即断即決する習性があります。太めな人は大らかそうで,細めの人は細かそうに思えます。形から来る連想でしょう。連れ合いに,もう少し太ったらと言われ続けていますが,20代から全く変化が無いので,どうしようもありません。年相応な貫禄が見えないとか,貧相な風情が漂うとか,見た目が頼り無げなのでしょう。
連れ合いの体型は太め好みに合わせてくれているので,何の文句もありません。母親が小太りであったせいで,似た女性に惹かれてしまったのでしょう。かつて,いろんな三人娘が登場しましたが,振り返ると一番太めの娘を応援してきたようです。
どちらかというと幅のある方が好きなせいでしょうか,最近のいろんなことについて考えると,人の生きる幅,体力の幅,思いの幅など,すべてに幅が狭くなってきたような気がしてしようがありません。
管理社会という現代の特徴が言われますが,管理するためには幅は極力絞り込まれます。組織では,スリム化として人員整理,経費節減,省力化と削られていきます。世情では,ちょっとしたことで怒鳴り合い,すぐキレテ,我慢は敵だと主張する風潮が強まっています。そんな自分が怖いのか,つきあいはなるべく狭く浅く遠く,関係ないものとは絶縁宣言して,自分に構わないでとひきこもっています。
そんな狭い世間ですから,ちょっとした出会いがオール・オア・ナッシング,好きか嫌いか,イエスかノーか,味方でなければ敵だと,その判断の過敏さが身を滅ぼしていることにも気づきません。
暮らしぶりでも,ブランドものでなければ100円もの,コクのあるまったりした美食でなければカップもの。その高低差は幅に見えますが,自分が良し悪しを判断したのではなく引っ張り回されているだけなので,余裕は何処にもありません。ましてや,自分に相応しいか・似合うかという,自分を生かそうとする気働きはできず,所詮は貸衣装という恥ずかしさを露呈しているだけです。
少しぐらいは嫌なこともあるさ,格好悪くてもいいじゃない,面白くなくたって当たり前,でも悪いことだけはお天道様に誓ってしていない。この最後のきっぱりとした筋目が生き方に張りを与えているから,生きる幅が出てきます。多少太めでも背筋がきりっとしていれば,颯爽としています。人自身を飾らずに外見だけを飾り立てても一向に輝きませんし,文字通りの見栄と見透かされるのが落ちです。
管理社会であっても,管理されていると思えば生き方が臆病になり,幅が狭まります。自分が自分を管理する社会だと考えていれば,許容範囲が広くなって,多少のことには動じない幅が備わってくるはずです。自分らしさの幅にしっかりと目を向けてほしいものです。
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