《不意打ちに 問われて答え 見つからず》

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 日曜日の午後,連れ合いと二人のテーブルでラーメンを食べていたときです。二切れの,それもつながっているかまぼこがのっていました。ふと,「このかまぼこをいつ食べる?」と尋ねると,「一緒に食べる」という返事です。どうにも話がぴたっとかみ合いません。
 こちらの頭の中では,「かまぼこをはじめに食べてしまうと,あとは麺だけになり変化がなくなるし,かといって最後まで残していてもいいものか,一番美味しい食べ時というのがあるのかな」,と考えながら,質問をしています。連れ合いの方では,質問だけを聞くので,意図がつかめません。
 いくら寄り添っているとはいっても,お互いに考えていることは伝わりません。まとまった話として,説明することが必要になります。末端の一文だけでは総意を表現できないからです。そのことに気付かないと,お互いが理解し合えないとか,話が途切れて会話ができないとか,相手を責めるような理不尽な印象を積み重ねてしまいます。
 分かってくれないという事態は,説明不足にも一因があるのです。自分のことは棚に上げて相手のことは棚卸しをする,それが自然な気持ちの流れでしょう。自分を常に上に置こうとする下心が底流にあります。その流れに竿を差さないと,夫婦という絆はほどけていきます。絆はお互いに結び直そうと努力してこそ,堅くなっていくものです。
 ラーメンのかまぼこをいつ食べようと大した問題ではありません。それが話題になったときに関心を共有できないままで終わると,気持ちのすれ違いが起こります。離婚した夫婦が日常の何でもない小さな亀裂が原因になったと述懐していますが,似たような状況なのでしょう。
 気をつけなければならないことは,亀裂を感じるのはそのときどきで一方だけであるということです。相手は亀裂だとは思いもしません。すれ違いと思うのは,仕掛けた方だけです。仕掛けられた方は素直に対応しているはずです。
 すれ違いを産み出した責任は仕掛けた方にあります。つまり,仕掛け方が不十分だから,相手は適切な応酬ができなかったのです。相手の責任を問うのは責任転嫁になります。
 連れ合いは意識はしていないでしょうが,二切れのかまぼこを入れてくれています。一つはいつでも食べて,もう一切れをこのときと思い定めたときに口に入れるようにすればいいというつもりなのでしょう。好きなものを最後に食べる習性を見抜かれているようです。

(2002年03月31日号:No.105)