《有難い 身を引き締める 機会得て》

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 新型コロナウィルスという言葉が耳慣れて,飽きるほどに蔓延しています。パンデミックや,3密といった耳慣れない言葉も紛れ込んできて,忙しくなっています。不用不急の用事以外の外出は自粛してくださいというお願いの要請が聞こえてきます。自分の身を守り,周りの人を守るために,普段の行動に一定の控えめさを課すことは常識でしょう。その自重を窮屈に思う若い世代の無理解さが非難されてもいます。花見は自粛をという空気を介さずに出かけている人の姿に,視聴者はどう感じているのでしょう。
 器楽の演奏家が3月の仕事がすべてなくなってしまったと話しながら,私の仕事は不要不急なものと分かったと寂しそうな顔をしていましたが,妙に感心してしまいました。年度替わりのこの時期には,組織としては決算予算を決する総会開催が必要です。狭い空間に密集して濃密接触で議論するという形は避けるべきという判断から,総会開催中止が周りで起こっています。ただ,手続すべて無しとするわけにはいきません。何らかの形での承諾手続を要します。不要とはできません。不要の線引きは悩ましい判断です。
 先日は,虐待に関わる裁判で判決が出されました。栗原美愛ちゃんの父親による虐待死の裁判です。16年の判決でしたが,その説明の中で裁判官が述べている言葉が気になりました。「力ずくや恐怖によるしつけは毛ほども必要ない」。力ずくのしつけというものの存在を前提にして,それは不要と言っているように思われます。力ずくというしつけは存在しない,してはいけないという理解とずれを感じます。力ずくのしつけはあり得ない,従って不要という判断に馴染まないと思っています。
 もう一点,「法定で涙を流す場面もあったが,謝罪ではなく後悔でしかない」と断じています。謝罪であれば娘への思いがあるが,後悔であるなら自分に向けた思い,自分勝手でしかないということでしょうか。普通に裁判で問われるのは,反省の態度があるかどうかです。この反省と,謝罪,後悔の違いはどこにあるのでしょう。被告が後悔していると訴えたとき,それを反省していると見做すのか見做さないのか,どうなのでしょう? 謝罪の気持ちが感じられるか,それが要件になるように思われます。
 器楽の演奏が不要なものというのではなく,演奏会というイベントが3密に照らして不要な局面であるということです。音楽そのものが不要ということはあり得ません。

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(2020年03月29日:No.1044)