家庭の窓
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ご近所の農家の方から,野菜や漬け物を頂きます。たくさん作っているからいくらでもと言われます。ありがたいことです。大変厚かましい言い方であることは十分承知した上で,頂くことも喜ばれることなのではと思っています。
連れ合いはこれまでにパンフラワーなどの手慰みをいくつかしてきましたが,いつの間にか辞めています。今も,何かしようかなという気になることもあるようですが,「作っても!」というブレーキが掛かっているようです。家で使う分は限られていますから,だぶついてしまうのです。ものを作る楽しみは作業プロセスそのものにありますが,作り続ける楽しみは役立ててくれる行き場があるときに生まれます。
生産は消費とセットにならなければ衰退します。いくら作っても,それが広く流れていかないと,詰まってしまいます。人に差し上げて喜んでもらえるものであればいいのでしょう。同じように,結婚式の引き出物など,貯まってしまって倉庫を狭くしています。特に記念の名前が入っているものは,どうにもしようがありません。
ボランティアもいろんな形での力の提供ですが,その力を必要とする方がいなければ意味を失います。提供側の体勢はどこでも盛んに立ち上がっているようですが,需要側の取りまとめが立ち後れています。ボランティア登録はしたけれど一度も活動したことがないという無念な声が聞かれます。そこに焦りや虚しさが漂っているのは残念です。
ボランティアというカタカナ語は,まだ根付いていません。提供する側の言葉だけがあって,利用する側の言葉がないからです。言葉がないから,利用する意識,気持ち,思いが育っていないのです。助けてもらおうと気軽に依頼すると,それはボランティアに馴染まないと拒否されたり,イヤな顔をされたりします。ボランティアとして,何をしてもらえるのかという共通理解ができていません。
ただ喜んでもらえればそれでいいと思っていたとしても,利用されるのはイヤだという別の価値判断が不意に割り込んできます。そこをクリアするためには,人間関係の下地を作っておかなければなりません。見ず知らずの間柄には,お互いに相手を知らないために警戒心が紛れ込みやすく,思ってもいない腹のさぐり合いになります。
ご近所で挨拶をにこやかに交わす間柄であれば,気心が通い,素直にやったりもらったりができます。できる人ができるときにできることで周りの方に喜んでもらい,素直に喜ばせてもらう,そんな信頼関係を作っていかないと,ボランティア活動が根付くことは望めません。
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