《有難い 人の思いは 受け方で》

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 イソップ寓話に狐と鶴のお話があります。狐が鶴を夕食に招待し、スープを平らな石の皿に注いで出しました。鶴が飲もうとすると、スープは長い嘴からこぼれてしまいます。狐はというとおいしそうにスープを飲んでいました。数日後、鶴が狐に、今度は私がご馳走するからいらっしゃいと誘い、狐の前に首の細長いつぼをおきました。狐は嘴がないので食べられません。鶴はつぼのなかに嘴を突っ込むと、ゆうゆうと肉(スープという話もある)を味わいました。
 この話は、狐が意地悪をして、鶴に仕返しをされたという教訓話と語られています。狐が「わざと」スープを皿に注いで出し、鶴も「わざと」壺に肉を入れて出したという設定です。落ち着いて考えると狐は皿で食べるのが当たり前、鶴は壺で普段食べているはずです。どちらもいつもの通りの食べ方です。狐はついうっかりもてなしの心を忘れただけかもしれません。それを鶴は狐はずるい動物だという先入観から、わざとしたのだろうと勘ぐって仕返しをしました。そう考えた鶴の方が遙かに意地悪になります。
 鶴は狐に対して皿で出すという気配りを示すべきです。そうすれば、狐は自分の失礼に気付くはずです。小さな不都合に出会うとき、それを相手がわざとしたと邪推するから、ことはもつれていきます。仕(4)返しではなく,御(5)返しをする方が一つ上手のもてなしです。たとえ狐がわざとしたことであっても、鶴の大きな気持ちがあれば、丸く収まることでしょう。
 寓話は,擬人化した動物などを主人公にした教訓や風刺を織りこんだ物語です。教訓という面では,してはいけないことをしてみせるという展開が普通なのでしょう。擬人化によって愚かな行為をするのは動物であることから,人を責める品の無さを避けることができます。人であれば,した方がよいことをしてみせる展開にしたいものです。
 教訓であるなら,どうすればいいのかを教えるものであるべきでしょう。「するな」と言われると,「ではどうすればいいのか」と問いたくなりませんか?

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(2020年07月05日:No.1058)