《有難い 不安な日々を 皆で耐え》

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 令和元年を迎えた頃,まさか世界中が予定外の状況に追い込まれるとは思いませんでした。子どもが授業が受けられなかったり,夏休みが消えてしまったり,リモート授業を経験もしています。大人は仕事ができずに,社会活動も中止になり,先行きが見えないいらだちに迫られています。活動を自粛している人は自粛していない人を責めます。一方で自粛しなくてもいいという場合でも,責められそうで緩めることができないでいます。
 コロナ禍が過ぎる数か月の我慢と思っていた見込みが外れて,どうしようと戸惑っています。3蜜を避ける,社会的距離なる間隔を創出して,なんとか活動の再編をしようとあがいています。マスクは必需品となりました。ただ個人的な活動はなんとかなりますが,社会活動となると多人数の形が普通ですので,様々な変化を余儀なくされます。単純には最大人数の縮小や回数の増加などです。ネットの利用もできますが,広く使える基盤は整ってはいません。
 予定されている活動ができないという状況で,代わりになるものを考えようとします。その際に,この自粛の間だけ凌ぐのか,それとも以後続けて変えてしまうのかという選択を迫られます。今年だけの代替え活動であるなら,大がかりなものは考えにくく,どうしてもできるだけ少ない手直しで澄むように計らいます。要は人の接触を避ければいいのでしょう,という開き直りです。それでも,様々な活動を全て手直ししなければならないとすると,考え出すのは結構な負担になります。
 人がお互いを警戒して避けなければならないという事態は,とてもやるせない思いにさせられます。人は寄り添うから人であることができると再認識させられます。コロナに感染した人が,どこの誰かということは知らされません。知らされると,その人から皆が一斉に身を引いてしまうからです。知らないままで放置せざるを得ないという状況も,感染防止という面では逆行していますが,社会的な寄り添いがもたらす活力を破壊するわけにはいかないという苦渋の選択です。
 先行きが見えないままに,とりあえず目の前のことに取り組んでいるしかない,そういう不安定な事態を皆が耐えています。

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(2020年07月19日:No.1060)