《有難い 平常心を 未だ持って》

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 小学生のころに読んだ「ああ無情」という小説が,すっきりしないままに心に残っています。貧しい主人公ジャンバル・ジャンが空腹のためにパン屋の店先からパンを盗み,追われる身になります。生きるためにやむにやまれない行為であり,生きる権利があると思います。一方で,パン屋にも商売をして生きていく権利があります。権利だけを考えると五分五分ですが,権利を侵害されたパン屋を擁護するために法はジャンの権利行使を窃盗行為として封じます。ではジャンの生きる権利は擁護できないのでしょうか。パンを盗まなくて済む擁護も大切です。
 カルネアデスの板という話があります。ある船が難破をしてしまい,一人の乗客が板きれにつかまって海上を漂っています。そこにもう一人の乗客が近づいてきて板きれにつかまろうとします。小さな板きれは二人の重さには耐えられずに沈みます。そこで先につかまっていた人が後から来た人を追い払います。生きようとする権利が衝突します。緊急避難と考えられます。
 ある法学者がこの問題を考えているとき,そばにいた小学生の孫娘に状況を説明して「あなただったらどうする」と尋ねました。しばらく考えていた孫娘は「私だったら交代で立ち泳ぎをする」と答えたそうです。自分と相手の権利を生かす方法をあっさりと考え出しました。原則を考える専門的アプローチがある一方で,なんとかしようという現実的なアプローチがあります。
 今の社会が抱えているコロナ災禍に対して,行政などのそれぞれの専門的判断をする必要がある一方で,庶民的な判断も迫られています。自粛しながら日常活動もするという中途半端な態勢を選んでいますが,先行きが分からないという曖昧さがつきまといます。その曖昧な部分が不安と期待の混在する部分です。そこには,やってみなければ分からないという経験が働いています。走りながら考えるということです。なんとも適当な運びです。
 ことが過ぎた後に起こることは,あのときはこうすべきであったという後知恵の噴出です。ことが動いた後から見ると,多くのことが見えてしまいます。後知恵は今はありません。特に新しい事態に対しては,経験知はかなり制限されます。今現在の状況を見ても,それがどのように推移していくのかの道筋の読みがかなり曖昧になってしまいます。一方で,先行きが見えないからと手をこまねいていることもできない中では,できることをしていくしかありません。その効果を見届けながら,修正を重ねていくことになります。
 どうなるか分からないという曖昧な不安を鎮めておかないと,事態を正しく把握できなくなります。怖がっていると,なんでも怖く見えてしまいます。過去の人が考え出した他愛のないあまびえという存在に頼ることもいいでしょう。それで心が落ち着くことができると,状況をありのままに認識できるようになります。時々「○○警察」といった行き過ぎた反応が報じられていますが,不安にとらわれた揚げ句の異常な行動は状況を悪くするだけです。皆の普通の対応に余計な乱れを持ち込んでしまいます。
 日々発表されるコロナ感染の陽性者数の変化に一喜一憂している今です。社会のあちこちで何が行われているのか,どう変わっているのか,皆で見届けて,皆がそれぞれにできることをしていく,その積み重ねがしばらく続くはずです。生きているといろんなことがある,その一つにつきあっていく日々です。自粛を基本に,がんばりましょう。

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(2020年07月26日:No.1061)