《有難い あったはずだと 気がついて》

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 昔から,仲の悪い間柄の比喩として犬猿の仲という言葉があります。その犬と猿が桃太郎の話の中では雉と共に仲良くお供をしています。犬と猿をお供にしたところに桃太郎の真価があります。犬は桃太郎と吉備団子で結ばれ,次に猿も桃太郎と吉備団子で結ばれました。つまり,犬と猿は桃太郎とのつながりを大事にすることで,桃太郎一家になることができました。世間にある仲のこじれた人間関係を集団生活の中で治めていく知恵を,桃太郎に学ぶことができます。
 双方とよしみを持つ第三者が間に入るということです。昔のご隠居さんというまとめ役が機能していたのも,同じスタイルです。世間の愚痴話を聞いていると,双方によしみを持つ人がいればよいのにと思う場合があります。信頼の置ける第三者がそれぞれの身近に見つからないのはとても残念なことです。
 子どもたちの社会感覚の育ちにも同じ関係が機能しています。3人以上のきょうだいがいる中では,お兄ちゃんやお姉ちゃんが育ちます。幼い弟妹がけんかをすると,いい頃合いのところで止めておくようにと仲裁に入ります。きょうだい社会を治めていく知恵を身につけます。学校でいじめが起こると,同級生であっても家では兄姉である子どもが,その辺で止めるようにと歯止めを掛けることができます。それを支持する他の兄姉も周りにいます。子どもの世界の桃太郎はお兄ちゃんやお姉ちゃんなのです。少子化がつくり出している子ども社会では,やりたい放題の弟や妹だけを育てていることになり,子ども社会の治め役を失わせているのです。
 大人社会も意図しているわけではないのでしょうが,結果としてご隠居のような第三者を排除しています。きび団子による信頼できる関係を結ぶことなく,新たなネット空間の中で何となくつながっているという状況です。あおり運転やネット炎上という新規ではありながら,実のところ全く大人げないトラブルが未だに起こっているのは,情けないことです。信頼できる間柄を生み出す力が失われていることに気がつかなければなりません。一致団結するといった桃太郎集団は時代遅れというのなら,それに代わる新時代の集団とはどういうものでしょうか?

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(2020年08月23日:No.1065)