《有難い あれやこれやと 言葉出て》

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 秋深き 隣は 何をする人ぞ。芭蕉の俳句です。現代人が選択している隣人との交流を忌避する暮らしぶりを比喩するために,公的な場でも引き合いに出されることがあります。芭蕉がそれを耳にしたら,おそらく苦笑することでしょう。芭蕉が旅の宿にいるとき,隣の部屋に新しい客が入ってきました。秋の静寂が深まるとき,隣の人は何をする人なのか気になる心情を詠んだものです。どうしてこんな誤解が生じてしまうのでしょう。
 講演の最初に「私はこれまで連れ合い以外の女性とキスをしたことがありません」という自己紹介をします。場違いなことを聞かされ会場は真面目な雰囲気が一瞬空白になり,その後不思議な和みが訪れます。そこで話を始めます。「私の今の自己紹介を皆さんはどのように受け止められましたか? のろけを言っていると思われた方がおられるでしょう。愚痴っぽいなと思われた方もいらっしゃるでしょう。嘘だと直感したつもりの方もおられると思います。私は皆さんに同じようにお話ししましたが,お隣の人とは受け取り方は必ずしも一致しているわけではありません」。唐突な自己紹介の種明かしは,その後の講演の聴き方への助言です。
 「伝えた」と「伝わった」とは必ずしも一致しません。初対面のような状況では,お互いの人柄を知り合っていないことがごく普通に起こります。話し手の思いは伝えられた言葉には乗りません。聞き手が受け取った言葉に反応して勝手に解釈するしかないのです。双方に同じ体験がなければ,言葉は違った意味づけをされていき,完全には伝わりにくくなります。芭蕉の体験は江戸時代の旅の中での人恋しさである一方で,今の都会人はあまりに混雑した人の中での無関心さがあります。言葉は解釈する人の体験を引き出してくるので,理解される内容は書き換えられてしまうのです。
 言葉の行き違いが起こるのは普通のことです。そんなつもりで言ったのではないということが起こります。だから,言葉を紡いで文章として伝えるようにします。詳しく話してみると,やっと伝わるということです。ところが今の言葉の流れは,短文が主流のようです。読書する人が少なくなっているのも傾向です。SNSのような強烈な単語の羅列,それは負の思いを呼び覚まし増幅するばかりになるので,炎上します。意味を伝えるのではなく,単純な感情を鼓舞するだけに縮こまっていきます。
 人はコミュニケーションを通して分かり合い共に生きていくことができます。コミュニケーションの道具としての言葉は,お互いの体験をつなぎます。体験が同じであれば伝わりますが,体験が違うとすれ違います。家。一軒家ですか,マンションですか。説明しなければなりませんね。説いて明らかにすることが大事なのです。

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(2020年08月30日:No.1066)