《有難い 人とつながる 言葉得て》

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 糸瓜というものをご存じですか。いとうりと言っているうちに「い」の音が聞き逃されて「とうり」となりました。かなを覚えるのに「いろはにほへとちり・・・」と並べますが,とうりの「と」は「へ」と「ち」の間にあるので「へち間」としゃれて言われるようになりました。糸瓜はヘチマのことなのです。ちなみに,しゃれとはさらすという言葉から変化したもので,さらすと白くなるという意味合いがあります。おしゃれも化粧して白くなり,しゃれこうべもさらされて白くなった頭ということになります。
 言葉を覚え始めの子どもたちに黄色の蝶を見せて,その蝶をほかの色とりどりの蝶の中に紛れ込ませます。「さっき見せた蝶はどれかな?」と指差しで答えさせると,見つける子どもと見つけられない子どもが出てきます。黄色という言葉を知っているか知らないかということでした。始めに見た蝶を「黄色の蝶」と認識できた子どもは難なく見つけることができますが,黄色という言葉を知らない子どもは蝶としか認識できないので区別できなくなるのです。
 言葉を知らないと見ていても見えないのです。物事を認識するためには,言葉というレッテルを持ち合わせていなければなりません。言葉は物事を見極める指標になります。恋という言葉を知ることで,もやもやした切ない思いが何であるかと把握できるようになります。セクハラという言葉を知ることで,見えていなかった行為の迷惑さが見えるようになりました。差別という言葉を知ることで,見過ごしていた人権侵害が見えてきます。
 どのような言葉を使っているか,言葉の素養が人となりを表しています。昔マイフェアレディというミュージカルと映画がありました。イライザという若いすれっからしの女性が教授によって徹底的に言葉の教育を受けて,レディに変わっていくという筋書きです。言葉が振る舞いを変えていくのは,周りを見る目が変わるからです。住む世界が変わるという言い方がされますが,人は環境に合わせて行動していきます。
 ネット世界という環境がより身近になってきています。そこでの言葉遣いが,匿名という発信者の立場のせいで,伝わり方にすれ違いが挟まっているようになりました。慣れない言葉の世界に振り回されている人も出ています。身近な人との言葉が少なくなっていることも,スマホ画面に群がっている人々をみていると心配になります。身を置く環境から浮き上がってしまわないかと感じています。

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(2020年11月08日:No.1076)