家庭の窓
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「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」。スポーツの世界でよく聞く言葉です。逆に言えば,健全な肉体でなければ健全な精神は宿らないということになります。病弱な方には傷つく言葉になります。出典である古代ローマの詩人ユウェナリスの詩では,「賢者が神様に願うのは、健全なる身体の中に健全なる心」となっています。心身両方の健康を願う言葉でした。翻訳した人が誤訳をして,その言葉が広まってしまいました。スポーツを推奨する上ではとても好都合ということで,引き合いに出されているのでしょうが,我田引水に過ぎているようです。
古代アテネでは,市民が民衆裁判に参加するとき,「私は原告・被告の両者の主張に公平に耳を傾けます」という内容の宣誓をしたそうです。やがて,「もう一方の側も聴かれるよう」という格言に整えられました。日本にも,「一方聞いて沙汰なし」,「片言訟を断ずべからず」という言葉があります。この格言は訴訟の三極構造を表現するものです。訴訟では,判定者が両当事者の言い分を聞いて決断を下します。両者の主張があってこそ,判定者に正しい理解が生まれるという考え方です。
相談を受けるときには,どうしても片方の主張だけになります。もう一方の主張がないままでは,双方の思惑の対立点が見えにくく,理解に困難が生じます。相談を受けるときには,適正な判定ができる立場にはないということを肝に銘じておく必要があり,意識的に中立公正を保つ努力が求められます。
家庭内では,子どものきょうだいげんかの折りに下の子が母親に泣きついてきます。上の子を注意したり叱ったりすることになりますが,その前に上の子の言い分も聞くことです。そうすれば,叱ることになっても,的を射る注意になるはずです。
社会には多様な人間関係があります。ときには,お互いの思惑がすれ違って,摩擦や衝突が起こることもあります。自分の思惑を主張できますが,一方で相手の思惑は分からないからです。第三者が登場しなければなりません。両方の思惑を聴き取る,両方が自らの思惑を安心して話すことができる,そういう信頼される人が求められます。社会が円滑に機能していくためには,3人の関係が組まれていることが基本となるのです。
表現をする際に,受け取る人の立場が違うことがあることを弁えておかないと,正しく内容が伝わりません。誤解されることがあるのは,そのためです。聞く立場になると,いらついてしまう発言がある場合,それは自分に向けられてはいない発言として無視するか,もしくは違う立場への気遣いのない不完全な発言と注意喚起するか,ということになるでしょう。当事者にその余裕がないときには,第三者が仲裁に入ればいいのです。
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