《言葉には 聞き手によって 色が付く》

 裏の田圃に水が張られました。いつの間にか蛙たちの合唱会です。毎年の風物ですが,毎年の疑問がよみがえります。田圃に水がたたえられるまで蛙たちはどこで何をしていたのでしょうか? 連れ合いとそんな他愛のない会話をしていたら,カエルの合唱が止みました。聞かれたかもしれません。
 「やせガエル 負けるな一茶 これにあり」という句が思い出され,相撲をしている蛙たちとそれをのぞき込んでいる一茶を描いた水墨による戯画が浮かんできます。負けそうになっているやせガエルを応援している一茶の優しさが感じられて,とてものどかな気持ちを引き出してくれます。子どもの頃に教わったのも,教訓的な意味があると考えられていたからでしょう。でもそれは一茶の思いとは違っています。
 この句を詠んだ頃の一茶翁は若妻を迎えて,毎夜夫婦愛に本腰を入れてがんばっていました。ちなみにこの本腰を入れるという言葉は,本来の意味からすれば女性の方が口にするにはふさわしくない物言いです。テレビ番組の中でヒロインが口にするのを聞いたところなので,気になりました。ところで蛙たちの競い合いは嫁取りのためです。強いカエルしか雌に相手にしてもらえないので,強さを競っているのです。カエルも一茶翁もお嫁さんという目標に向けて一所懸命で,やせたカエルと年老いた一茶の似たもの同士だからこそ共感しあっています。のどかな情景などではなく,背景にはきわめて切実な思いが込められています。この句を子どもの時にのどかなイメージで覚えてしまったら,おそらく一茶の真実の思いは伝わらないことでしょう。子どもにはふさわしくない句なのですから。
 読書や講演などは言葉が伝達手段ですが,受ける側の感性によって伝わる内容が微妙に変化をします。同じ言葉を聞いても,人によって受け止め方が違ってきます。また同じ本を読み返すたびに新しい感想が呼び起こされるのも,読む方の感性がその間に成熟しているからです。生涯にわたって学習することの意味は,自分の今にふさわしい感性を発見するためなのです。
 
ホームページに戻ります Welcome to Bear's Home-Page (2000年06月25日号:No.12) 前号のコラムはこちらです 次号のコラムはこちらです