《有難い 同じに気づき 和やかに》

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 聖徳太子が律令制度を始めようとして,日本の実状を眺めたとき,大きな問題に直面しました。当時の日本のあらゆる文化の担い手が,日本人ではないということでした。日本に漢字を伝え,仏教を伝え,医学を伝え,仏像の技術,建築の技術,織物の技術を持ち込み,文化の息吹をもたらしたのは,中国からの,あるいは朝鮮半島から来た帰化人でした。こうした帰化人たちといっしょにうまくやっていかなければ,日本は成り立たないという難問に対し「和」という最良の目標を見いだしました。
 「和をもって貴しとなす」の「和」とは,全く違っている人間が集まり,違ったまま渾然一体となって,一つの響きを醸し出すといった壮大な目標でした。そこでは,当然に違っている人間がお互いの人権を尊重するという要件が満たされていたはずです。
 「ばちがあたる」「もったいない」「ありがたい」という言葉があります。年配の人でも,知ってはいるが普段意識したことはないという言葉でしょう。「ばちがあたる」は,理不尽な行為への報復を意味した言葉で神道を表しています。「もったいない」は,勤倹節約を旨とする儒教を一言で言い表しています。「ありがたい」は,仏の加護に感謝する仏教そのものと言えるでしょう。
 このように誰にでも分かるやさしい言葉を使いながら,多宗教混淆文化を受け継いできたのも,和の一環と見なすことができます。違いにこだわるから争いになります。違いを越えて和に向かう伝統の復興もいいかもしれません。違いを越えるということを言いましたが,言うは易く行うのは固しという状況を,具体的にはどうすればいいのでしょう。
 和といえば,算数の世界では和差積商であり,足し算です。復習をしておきましょう。男の子2人と女の子3人を足すと何人ですか? 答は5人ですね。本当ですか? では,ミカン2個とリンゴ3個の和は何個ですか? 5個です。では,マッチ棒2本と電信柱3本の和は? 5本ですか? 足すとおかしいですよね。違うからです。和とは同じものでしか成り立ちません。男の子2人と女の子3人の和である5人は誰ですか? 男の子でもないし女の子でもありません。
 男の子は子どもです。女子も子どもです。ですから,子ども2人と子ども3人,同じ子どもだから和が5人の子どもになります。ミカンとリンゴも和にはなりません。ミカンもリンゴも同じ果物なので,果物が5個になります。つまり和とは,同じでなければならないのです。違っている人が一体になるという和とは,同じ人間としてという了解が前提になるのです。違いを越えるというのは,より大きな同じ認識によって可能になります。
 同じ釜のメシを食う仲というように,同じクラスにいる,同じ町に住む,同じ趣味を持つ,など,同じということが見つかれば,和が可能になります。人は個人として皆違います。どのような同じを見つけ意識しお互いに了解できるか,それが和になることであり,尊いことなのです。

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(2021年06月27日:No.1109)