《花を摘む 野蛮な指の 出来心》

Welcome to Bear's Home-Page
ホームページに戻ります

家庭の窓にリンクします! 家庭の窓

 植木が茂ってくると,庭が窮屈になります。それぞれの木が自分を主張して日光を我がものにしようとしているだけです。自然は強いものが蔓延るという摂理を見せつけてくれます。足下にひっそりと伸びている草花のことなど,知るよしもありません。木自体も陰の方はひ弱で,バランスを壊しています。寝返りが打てればいいのにと思いますが,根っこが大地に張り付いているので無理です。
 自然を見て心を和ませる暮らしを人は求めますが,見られている植物はそんな悠長な生き方はしていません。ひたすらに自己主張するだけです。植物の生命力にあやかろうとすれば,なりふり構わない生き方を選ぶことになります。自然界は厳しいのであり,弱者は淘汰されるのでしょうか?
 種の保存という生き物の本能は,他者を敵と見なし防衛を施しながら,ただ生きることに邁進する遺伝子の命令に拠ります。遺伝子はわがままなのです。さまざまな生き物は,敵のいない安心できる環境の隙間をねらって,蔓延ろうとします。それが結果的に共存という形を造りだしているに過ぎません。譲り合うという機能が働いているとは思えません。たとえ仲がよいという関係が見えたにしても,それはお互いをがめつく利用しあっています。
 目の前に広がる風景が植物の本能むき出しの体を帯びてくると,和やかさを失ってきます。人はそれを荒れ放題と呼びます。自然に手を入れる行動に入ります。おそらく樹木にすれば全く想定していなかった危害に遭遇することになるはずです。伸び盛りの枝がのこぎりで伐採されることなど,遺伝子情報には組み込まれていなかったことでしょう。それでも,すぐに体勢を立て直して,やがて新しい枝を性懲りもなく伸ばすようになります。
 人は花を愛でます。花道という営みも花をテーマにした心の慰みです。花は植物にとっては生殖器です。花はまさに今熟しているという誘いなのです。人に準えれば秘しているはずですが,それを美しいと感じる気持ちは,考えようによっては覗きの極致と重なります。なぜなら,花にとって人間は何の関係もない赤の他人であり,花にすれば赤の他人に覗かれていることになるからです。
 人間は花と虫たちの聖なる世界をのぞき見して,生きることそのものズバリをあからさまに直視できる身勝手な歓びに耽っています。覗きだけならまだしも,花を摘み取るという凌辱行為をしでかし,おまけにその哀れな生け贄を花瓶にさらし見せ物にして楽しんでいます。花は自らの不幸をどんなに嘆いていることでしょう。花の恋路を邪魔する奴は虫に刺されて死ねばいい,そんな恨みを込めて萎れていくのでしょう。
 動物や植物の生命を頂いて人は健康に生きていきます。強いものの特権として自然の仕組みに組み込まれています。身体の健康のみならず,心の健康のためにも自然への介入をしています。庭の景観を整えるため,心の歓喜のためといった人間の価値や趣味も,強いものの特権になっています。考え過ぎていることは承知していますが,全くの無頓着も恐いと感じています。

(2002年05月12日号:No.111)