《有難い 似た経験で 分かり合え》

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 「うちのどら息子が…」と親が言います。時を知らせる鉦として,銅鑼という打楽器が使われていました。遊郭では,「カネを尽く」と「銅鑼を撞く」を掛けて,お客がお金を散在することを「銅鑼を打つ」と言っていました。そこから転じて金を使いまわる放蕩息子を指すようになりました。
 大切な娘を奪っていく若い男性に,父親が「どこの馬の骨が…」と憎らしげに言い放つ場面があります。中国で役に立たないものとされていたのが,鶏の肋骨と馬の骨でした。馬の骨は大きいだけに余計に邪魔で,傍迷惑なものの代名詞になり,やがて,素性の分からない者を指す言葉になりました。
 若者が先の見通しもなく突っ走っていると,年配者から「このたわけ者が…」と怒鳴られます。農民が子どもたちに財産である田んぼを分け与えると,一人当たりの田んぼは狭くなります。子だくさんなら,食うに困るほどに狭小になります。そこから,田分けは愚か者の代名詞に使われるようになりました。分けずに長男が丸ごと引き継ぐことになっていたのです。
 母親の優しい声で諭しても効き目のない子どもには,父親のドスの利いた声で叱ることになります。人を脅すときには,ドスの利いた声を使いますが,ドスは脅すを略したものです。そこから,小さな刃物をさすようにもなりました。
 言葉を覚え知って使ってはいても,今ひとつ上滑りしているという感じを持つことがあります。その由来を知ると,納得という落ち着きがあります。話す方がよく分からずに話すことがあるということは,聞く方も聞いた言葉を正しく聞き取っていないことがあるということになります。新しい流行語や若者言葉などは,慣れて馴染んでいる人の間では通じますが,聞き慣れていないと「何のこと?」と,受け付けようがありません。
 言葉はそれぞれストーリーとつながっています。辞書に載っている言葉の説明も,短い物語です。先人の経験を一つの言葉にして,〜のようだという同じ経験を表す符号にしたものです。人は経験したことを伝えようとして言葉を生み出し,そうだよ,その通りと分かり合えるようになりました。そのために,住む世界,関わっている業界,生まれ育った時代などの違いがあると,経験が異なるので,話がきちんと通じないという状況になります。そこを補うのが想像力です。

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(2021年12月12日:No.1133)