家庭の窓
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アメリカの作家マーク・トウエンが,説教を聞いて「たいへん感銘しました。ただ一語一語みんな私の愛読している本に書いてあることでしたが」と言いました。説教者が「そんなばかな」と怒ると,「では、さっそく証拠の本を送りましょう」と約束して帰りました。後日,説教者が手にした本は国語辞書でした。またトウエンはこんなことも言っています。「競馬を成り立たせているのは意見の相違である」。自分だけは正しいという意見がそれぞれ違っているという皮肉です。
レミングというネズミは,突然に群れをなして海に向かって落ちて死ぬという不思議な習性を持っています。アメリカの作家ジェームス・サーバーが,レミングとの対話を書いています。「キミたちはなぜ海に突進して溺死するのかね?」。するとレミングが答えました。「なぜ人間たちは,それをしないのかね」。一方の当然は他者には当然ではないのです。
韓の国の昭侯が入浴していると,お湯の中に小石が入っていました。家来を呼び「風呂番の長が免職になると誰か代わりの適任者があるか?」と聞きました。家来たちが「あります」と言えば,昭侯は「その者を連れてまいれ」と。その男が現れるといきなり叱りつけました。「お前はなぜ風呂に小石を入れたのか?」。果たせるかなその男は平伏し「風呂番の長が免職になれば私が長となれます。それゆえ風呂に石を入れました」と白状しました。他人の悪口を聞いたとき,この話を思い出すと,軽率な判断を避けることができるでしょう。
人の表現や行動の背景には,その人なりの目的や意図があります。表現では,一つ一つの言葉を自分で選んでいるから,自分独自のものと思い込んでいます。しかし,言葉はすべて誰でも使っているものであり,だからこそ通じます。このところの情報過多の中にいると,どのような言葉のつながり,文章も,必ず誰かが既に使っていたものになります。そのために,自分の言葉がただの受け売りになっていることもあり得ます。ただ,それはそれでいいのです。独自性に拘るのであれば,誰も使ったことのない意味不明の言葉で表すしかないからです。
身の周りで起こっていることをどのように解釈するかは,その人の経験に依ります。お湯の中に小石が入っている状況は,普通には起こるはずがないことです。何らかの理由があると考えるのか,何かの弾みでそうなってしまったのか,気になってしまうと分からないと落ち着かないものです。誰かが故意に石を入れたのかもしれないと考えるためには,そういう意志が働く環境であること,そういうことを人は思いつく可能性を経験上知っていること,そのことで得する人がいるはずという推論など,いくつかの条件の重なりを認識する必要があります。人は欲にとらわれて愚かな行動をしてしまう,そういうことは誰も知ってはいますが,それがどのような具体的な形で実現されてしまうか,それを予め知ることはほとんど無理です。後知恵として解釈することができたら,経験知として役に立つかもしれません。
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