《有難い あえて屁理屈 楽しみに》

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 アパートの表に「貸し室あり。ただし子どものある方お断り」という張り紙がしてありました。管理人室に小さい男の子を連れた婦人が部屋を借りにやってきました。管理人が「張り紙をよく読まなかったんですか? 子どものある人お断りと書いてあるでしょう」というと,婦人が連れている男の子が,「ぼくには子どもはありません。母親がいるだけです」と答えました。
 「塩の美味しい食べ方を知っているか」。「塩なんかどうすると美味しくなるんだ」。「焼きたてのステーキに振りかけるんだ」。
 「ふたりのロッテ」を書いたドイツの作家ケストナーは,子どもを対象にした読み物に両親の離婚を扱ったことへの非難を予想して言っています。「わたしはその人に,この世の中には離婚した両親がたいそうたくさんいること,そのためにいっそうたくさんの子どもが苦しんでいること,また他方,両親が離婚しないために苦しんでいる子どもがたいそうたくさんいることを,話してやりましょう」。
 芥川龍之介が作品の中で教えてくれています。二宮尊徳が少年時代に働きながら勉学に励んだという立志譚は,尊徳に名誉を与えるものだが,尊徳の両親には不名誉を与えています。尊徳の教育に寸毫の便宜も図らず,寧ろ障碍ばかりであったことを示しているからです。
 物事を常識的に見ていると,裏につながっている物事が状況を逆転してしまうことを見落とします。当事者自身も気がついていないことがあります。着目点を意識的に移してみると,物事の価値をより深く広く見極めることに役に立つことでしょう。
 現実の世界では,視点や立場の入替はいわゆる屁理屈として無視されます。現実の世界は混乱を回避するために,ある決まった視点を前提にしています。部屋を借りることができるのは大人だけ,塩は調味料であり美味しく食べると考える対象の食品ではない,子どもを働かせる親もまたやむを得ない状況にある,といった背景が加味されます。ただ,その背景が普段は意識されていません。話しがややこしくなって,面倒になるからです。
 ただ,時には,自分の理解が一方的であることを検証することも,物事を理解する感度を維持するために必要なことです。

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(2022年01月23日:No.1139)