《縁側を 無くした家の 人さみし》

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 縁,縁,縁。同じ字が三つ並びました。実は,ひらがなで書けば,えん,えにし,よすが,というつもりです。文章を書いているときに,「よすがとなる」と言いたいのですが,「縁となる」と表記すると,どの読み方なのか見分けがつかなくなります。書いている側の意図通りに読んで頂けるか,心許なくなります。印刷物ならルビを打てば解決しますが,ホームページ上では「縁(よすが)となる」とせざるを得ません。
 どれでも似たり寄ったりでおよその意味は通じると思えば,そう思えないこともないのですが,そこに微妙なズレがあることを気にするなら,やはりこだわりたくなります。文章への思い入れでしょう。前後の文脈から,それなりに相応しい読み方が選択されることを期待することもできますが,確かな保証があるわけではありません。
 よすがという言葉がマイナーな言葉になっていることを考えれば,縁の字がよすがと読まれる確率は少ないはずです。それが分かっているなら,わざわざそんな紛らわしい字を使わなければいいではないか,という考え方も成り立ちます。世の中は分かりやすい文章を,という流れですから,従うのも一つの書き方です。しかしながら,分かりやすいということは必ずしも易きにつくということではないはずです。
 よすがという言葉を使わないことが分かりやすさであるとすれば,やがてよすがはお蔵入りとなって日の目を見なくなります。言葉を失うことは,生き方を窮屈にします。なぜなら,人は自分の感情を言葉によって整理するものだからです。
 縁談と言うように,縁(えん)は人と人とを結びつけることを意味します。ご縁があるように5円を賽銭にします。なぜ結びついたかを知りたくなるのが人の常ですが,そのときに縁(えにし)という運命的な結びつきなのだという裏付けを意識して納得しようとします。偶然ではないと信じたいのです。その結びつきが大切なものとして生き方に関わるようになると,縁(よすが)に昇格します。
 袖振り合うも多生の縁。単なる偶然に見える縁(えん)は前世からの約束としての縁(えにし)である場合があり,その中にはその後の生き方を支える縁(よすが)になるものが含まれていると考えられてきました。その読みの違いは,縁を結ぶ人の心が満ち足りていく変遷を反映しています。
 人は自分の周りと関わることで生きていくことができます。たくさんの縁(えん)を結ぼうとしなければ,縁(よすが)も手に入れることはできません。生きるということに張り合いを持てるのは,縁(よすが)を持っているときです。人は孤独になると弱いものです。生きる喜びを見つけていないと,生きる辛さに押しつぶされます。孤独の闇に縁(よすが)という灯りがあれば,強く生きていくことができます。

(2002年06月09日号:No.115)