《有難い 話す言葉を 選んでい》

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 ポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルは,1542年,35歳でインドのゴアに着き,各地でキリスト教の布教活動をしていました。ある日,人を殺して鹿児島からマラッカまで逃げてきていた日本人のヤジローに出会いました。
 ザビエルは日本でも布教しようと,ヤジローに日本語を教えてもらいました。例えば「神」は大日如来の「大日」,宣教師は「仏僧」という言葉に変換していきました。
 天文18年,1549年,ザビエルは鹿児島に上陸しました。早速領主の島津貴久と面会し,「わたしは大日の教えを広めるために参りました仏僧です」と挨拶しました。貴久はキリスト教がてっきり仏教の一派だと思って,布教を許可しました。
 ある看護師の話が新聞のコラム欄で紹介されていました。認知症の患者が幻覚で「火事だ」と騒ぐとき,「消してきますね」とその場を離れ,しばらくして戻り「消えてました」と言うそうです。患者にとっては火事は現実であり,否定すれば混乱させてしまうからということのようです。
 一見して,嘘を言っているようですが,嘘も方便という場合もあり得ます。悩みを訴える人に寄り添おうとすれば,それが事実であるかを短兵急に問うことはせずに,ひとまず相手の世界に入り込んでみることも必要になります。そうすることで「自分のことを分かってくれる人」が側にいるという直感が育まれると,信頼という関係を結ぶ端緒になります。この人の話すことは聞いてみようという人間関係がスタートします。
 恋は盲目といわれますが,お互いに大切な関係を作ろうという願いを盛り込んでしまう一方で,交わす言葉を真っ正直に信じる誠意をもって受け止めます。そこに幾ばくかの打算とも言える部分が紛れ込むこともあります。そこで,恋という字は下に心がある,下心ありと言われます。よほどの悪意が込められている場合は論外として,望ましい縁を結ぶために必要な初期の手順として,方便というものが認められています。
 人の言葉には建前と本音があることは自明のことです。建前とは相手を立てるように,本音は自分の都合に添うように,という目標が言葉の背後にあります。特に意識をしなければ,人の言葉は本音になります。社会生活の上では,建前を語らなければ通じません。穏やかに暮らしていくためには,本音につながる自分の都合を穏やかなものにしなければなりません。自制というブレーキを有効に活用すべきです。
 最近,高齢者の運転の危険性が注目されて,免許証の返納が勧められています。問題点は,ブレーキを使えないということです。対話関係でも,高齢者による店舗などでの暴言が話題になっています。ブレーキの効かない言葉は,人との関係を破壊します。ブレーキの無い言葉は,ブレーキの無い車と同じで危険です
 旧い言葉があります。子曰く,吾十有五にして学に志し,三十にして立ち,四十にして惑わず,五十にして天命を知る,六十にして耳順う,七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず。70歳になれば,思い通りにしても社会的な限度を越えることはなくなる,ということです。現在の高齢者は,その境地に届いていないのでしょうか?

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(2022年08月21日:No.1169)