家庭の窓
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言語を「心の小径」と信じていた言語学者の金田一京助が,樺太アイヌの言語採集に訪れたオポチョッカの部落で,沈黙の壁に阻まれて,とりつく島もなく空しく日を過ごしていました。4日目,遊んでいる子どもたちの姿をスケッチしていると,子どもたちが近寄ってきて,絵を指して何か言っています。思いついて,新しく人の顔を描きました。目を描くと「シシ,シシ」,眉は「ラル,ラル」といった具合に子どもたちが叫びます。たちまち数語の単語が手に入りました。
ついで,目茶苦茶な絵を書きなぐって,「何?」にあたる「ヘマタ?」を手に入れました。後は実に容易でした。こちらから石でも草でも「ヘマタ?」と聞けばいいのです。こうしておぼえたての数十の単語を,大人たちに使ってみると,その効果は絶大でした。隔ての壁はいっぺんに切って落とされ,心の小径が通じたのです。
ところで,日本語を使っている同士では,心の小径は通じているのでしょうか? 相談の対応の場で,相談者が訴えてくる「苦しい」という言葉に,「苦しいですね」とオウム返しに受け止めることが勧められます。簡単に苦しいねと分かった風に言うのはやめてください,と叱られるかもしれません。「苦しいんですね」と,相手の思いのままを受け止めることが,寄り添う基本でしょう。心の小径は距離を置いて通じることが大事であり,同じ心を重ねようと作為をすることではないのではと思います。私のことを分かってくれる,受け止めてくれる人がいる,それは私が私であっていいと他者に確認してもらえることです。
言葉は交わされることが本質です。交わすということは,人と人を結びつけることです。言葉は話す方の選択によって,意味が付与されて,発せられます。言葉を受け取る方は,意味を把握して,受け止められます。私を分かってと伝え,あなたを分かりましたと伝わります。言葉が少ないと,分かる程度も狭くなります。言葉が豊富だと,分かる程度も深くなります。
今,人を結ぶ言葉のやりとりが,いたって簡素になっています。ほとんどが叫びです。叫びは気持ちを伝えるのは得意ですが,意味を伝えるには不向きです。意味不明なので,意味の読み取りが精度を落とし,誤解を伝えてしまいます。灰色を伝えるのに,「黒だ」と言うと,受け取る方は「真っ黒だ」と思い込みます。もちろん,何が黒なのかも分かりません。説明責任という作法は言葉の使い方の基本であり,一方で説明確認という作法も言葉の受け方の基本です。
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