《借りてきた 言葉に馴染み 産み忘れ》

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 塀の外は田圃です。水が入ると,その夜からカエルの大合唱です。前日までは全く音沙汰がなかったのに,いきなりの登場です。一体どこに待機していたのかと不思議です。昼間はケロッとも言いません。暗くなってから休み無く続きます。いつまで続くのか,つきあっていられないので分かりませんが,朝には終演になっています。カエルが鳴くから帰ろう,そんな遠い頃を思い出します。
 田圃に水が導き入れられるのを眺めていると,見事に同じ深さで満たされていきます。当たり前なのですが,その水平度には感心させられます。かわいい苗が植えられて間もないために,夕日が水面に反射してきらきら輝いています。緑の絨毯に変わる日は,すぐにやってきます。夕日を見下ろす期間はほんのわずかです。自然の風景の早変わりは,芝居の役者の早変わりに似て,感動を誘うものです。
 田の力と書いて男になります。田を分けて相続していくと,数代で田は狭いものに分割されてしまい,使い物にならなくなります。そんな愚かな行為を田分けと書いて,たわけと言います。たわけ者という言葉になります。長子相続は生活上の必然であったのです。田になる所を獲得しようと努力することを一所懸命と言います。転化して生まれた一生懸命は言葉としては意味が通りません。一生に命を懸けるなど当前で,命が終われば一生も終わりです。
 見たもの,感じたものを字という抽象化された記号に託すことで,人は経験を整理して記憶して使えるものに変えてきました。万有引力という言葉を定義することで,世界観が明らかになりました。天動説・地動説という区分けをすることで,世界観の構築が可能になりました。物を知る作業は言葉を産み出し正確に理解することから始まります。
 カタカナ語が氾濫していることを嘆くのは,基本である言葉を借り物で済ませている情けなさ,自分の言葉を作り出せなかった悔しさに端を発しています。言葉を借りるということは,思考を支配されることだからです。文化の基本は自分の世界を自分の言葉で表現することであり,それによってのみ自分に最も似合いの場という受け止めができます。
 お国なまりは地方が産み出した自前の言葉だから,使い心地がいいのです。国際化の中で西暦年を使うようになってきていますが,それでも平成という元号年が消えないのは,自分たちの数え方であるという据わりの良さが感じられるからです。西暦はキリスト教に基づいたものであり,貸衣装に身を包むのと同じような違和感を脱ぎ去ることができません。自分の言葉を産み出す元気が無い民族は,言葉の支配を受けることに留まらず,思考までも染まっていくのは,歴史の教えてくれていることです。言葉の乱れとして現れた状況は,深いところで自分の言葉を産む営みの停滞が起こっているのです。

(2002年06月30日号:No.118)