《有難い 間に合わせする 年の功》

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 イギリスの政治家ウィンストン・チャーチルは,大変絵が好きで自らも筆をとり,しかもそれがなかなかの出来映えと評判でした。しかし,チャーチルの描く素材は,なぜか圧倒的に風景画が多数でした。そんなチャーチルに,ある日マーガレット王女が尋ねました。「なぜあなたはいつも風景画しか描かないのですか?」。すると,チャーチルは愛嬌ある笑顔で,「草や木や山を描いているぶんには,人間とは違って多少実物と似ていなくても,文句を言われることはありませんからね」とエスプリを利かせながら答えました。
 絵画とは別の表現に言語があります。言語の基本は名付けです。人という言葉は人一般を表す普通名詞ですが,個人を表す名前という固有名詞があります。個人を認識する目では,人物画は固有名詞的に似ていなくてはならないことになります。ところが,風景の中の木は一本一本に名前などなく木であればいいのです。個々の木が持ち合わせている枝振りが実物と違っても気になりません。
 人間の世界に投影すると,行きずりの人は名も知らない普通の人なので,どういう人であるのか特徴を知らなくても気になりません。ところが,何らかの関わりを持つ固有の名前のある人には,良い印象や悪い印象といった細かい部分が気になります。生まれも育ちも違うので,あらゆる面で双方に望ましい関係が持たれることはあり得ません。お互いの思い違いが際立ってギクシャクすることがあるのは避けられません。その際には,違いが気にならない程度に間合いを広げることです。
 人間とは,その言葉の通りに間が大事なのです。仲間という言葉も,間が入っています。ことがうまく運ばなくなったとき,間違いが問われます。間が違ったのです。間が生まれるのは,向き合うときです。その向き合いが順調であればいいのですが,不調になることもあります。双方の相手に対する理解や対応などが,それぞれに想定内であることが間のあるべき条件になります。もちろん,人としてあるべき間ということも最低限の条件です。
 人の結びつきでは,それぞれの人柄が結び合うときに間柄となります。人は自分の周りに,人との結びつきをするための間であるオーラをまとっているので,人間という認識が自然に受け入れられています。ただ,それがあまりに自然なので,ことさらに意識はされなくなっています。人を描くときには,その人ならではのまとっている間をみえるようにすることが必須になります。実物と似ているという感覚です。

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(2022年11月06日:No.1180)