家庭の窓
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前6世紀頃,サモス人イアドモンが友人と酒を飲んでいて,大ボラを吹いていました。「これぽっちの酒に酔うなんてだらしがないぞ。俺は海の水だって飲み干せるぜ」。しつこい男であった友人は「そいつは面白い。やってもらおう」と,飲めなかったら屋敷を明け渡す約束までさせてしまいました。翌朝海辺で待っているという旨の使いが来て,困り果てていたイアドモンは,日頃から目を掛けていた機知に富んでいる奴隷の知恵を借りることにしました。
友人は町中の人を海辺に集めていました。友人が「さあ、約束通り海の水を残らず飲んでくれ」と言うと,イアドモンは少しも慌てず「いいとも。だがその前に河口をせき止めて川の水が流れ込まないようにしてくれ。俺は海の水を飲むとは言ったが,川の水まで飲むとは言った覚えはないからな」と答えました。友人は言葉に詰まって何も言えませんでした。屋敷に戻ったイアドモンは「お前のお陰で助かった」と,奴隷であるイソップを自由の身にしてやりました。
「ご飯論法」ということが言われたことがあります。政治や国会に興味がある人は,耳にしたことがあるかもしれません。議論の際に追求を逃れるため,「朝ご飯は食べたか」との問に「(パンは食べたけど)ご飯は食べてない」という論法で,わざと論点をずらして回答することを言います。
つい調子に乗って口にしたり,苦し紛れに漏らした言葉を逆手に取られて追い詰められることがあります。ネット上で何やかやとおしゃべりをして,失言騒ぎを招いていることが多くなりましたが,言葉を使い始めて以来起こってきたことでしょう。
言葉は話者と聴者それぞれにより適当に意味が限定されます。信頼感という基盤がなければ,筋違いの解釈をされてしまうので,話は通じません。意図的に言葉尻を捉えて紛糾を招くことは,未熟な大人げない仕儀です。お互いの言葉のずれをどのように分かり合えるかという作業をすることが実りある対話の作法です。
ご飯論法は論の始まりの状況を表すに過ぎません。次のステップで,ご飯とパンというお互いの想定の違いを確認し合えば,より理解の幅が広がっていきます。次のステップを拒否して論を打ち切るから,擦れ違いで放置されるに過ぎません。ことさらにご飯論法と名付けるのは,大人げないことです。互いの意味が重なっていない互意無重は,茶飯事でしょう。
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